第55話:凍える学校
冷えていく。吐く息の真っ白な中、これ以上? と文句をつけたい。もちろんそれには、聞き入れてくれる相手の心当たりさえないけれど。
窓の向こうに北校舎を眺める。これという明かりも見当たらないのに、ほんのり白い。
その反射となるととても弱々しく、窓枠や黒板の端をようやく映すので精一杯だ。
「そろそろいいかな」
おもむろに、鷹守が立ち上がる。
優しいのは取り消すと、私の言葉に驚いていたけど。なにもなかったみたいに窓ぎわへ。
「やっぱり先生の車、なくなってるよ。窓を塞ごう」
見回りの心配がなくなったら、照明を点けられるように暗幕を貼り付ける。そうしなければ敷地の外からでも、誰か居ることがバレてしまう。
たしかにそれでは、絵の続きができない。私も頷き、纏っていた暗幕を持っていった。
「ごめん、高いほうを頼んでもいい? 僕じゃ届かなくて」
「うん」
差し出されたガムテープを受け取り、上靴を脱いで机に乗った。
カーテンレールにでなく、窓の縁へ。私の背丈でも、どうにかギリギリだった。
鷹守が優しいのは間違いない。でもそのひと言で収めるのは違う。
ではどんな言葉に代えるのか、たくさん並べればいいのか。それともはたまた——
どの方向に正解があるか見当もつかず、黙々と貼り付け作業を進めた。
「できたね、助かったよ。前に一人でやった時は、机を二段重ねにしてさ」
デカいとか邪魔とか言われなければ。便利と言ってもらえるなら、背の高さを言われるのも嬉しいと思う。
そんな私を嘲笑うなんて、鷹守はしない。疑いの欠片もなく信じられるけど、ではこの笑みはなにかと問われれば答えられなかった。
男子の中でも低いほうの彼が、頭一つ以上も高い私を頼る。恥ずかしいとかなんとか、マイナスの感情を感じさせずに。
「私ね、あんたを見下してた」
伝えなきゃ、と考えたかも覚えていない。気づいた時には、言葉が出ていた。
伝えた後、どんな空気が残るのか。もうごまかしようもなくなった今も、見通せていないのに。
「そうなの?」
妙な間を挟むこともなく、鷹守は答えた。普通に、むしろ感心するような感じで、部屋の照明を点けた。
小学校の絵画コンクールで、銀賞をもらったことがある。もしかして五秒前の私が言ったのは、これだったかなと現実逃避に走りかけた。
「まあね、沢木口さんたちはパシリだと思ってたんだろうし。傍から見ても、いくじなしで情けなく見えたのかも」
ああ、やっぱりきちんと伝えていた。でも後悔や自分への呆れはない。
「そうだよ。あんたは弱くて、されるがままで。私が
「うんうん」
楽しそうに頷くのは、絵の具を溶き始めたからだろうか。まだらに汚れたエプロンを着込み、彼は筆を振り上げる。
「でも違った。あんたはあんたの言った通り、あんたが嫌じゃないからやってあげてただけ。私が普通だと思ってた場所は、あんたと同じ高さにあったよ。たまたま雪が降らなかっただけで」
鷹守の描く絵は、仕上げの段階に入った。さすがにもう、これが私達の通う高校とは疑いようもない。
しかし、なんの絵かを答えるのは難しかった。
見たままを言えば、正門を入った正面の景色に雪が降っている。かなりの猛吹雪だ。
ただ、わざわざそんな一枚絵をどうするのかと思うと、これでは正解になるはずがない。
「そうかな?」
「うん、分かるよ。あんたと私は同じじゃない。雪が降ったって、あんたは自分の進みたいように進める。私はすぐに凍えちゃって、歩くのを諦めた」
いかにも違うと言いたげに、「うーん」と長い唸り声。
違わないよ。だから私は兄ちゃんに助けてもらおうとしてる。
自分が逃げ出すことを認めると、とても楽に呼吸ができた。
「あんたが普通なのか、特別に強いのかは私に分からない。だけど私は普通に届かないんだよ」
私が息を継げば、どこまでも硬い静けさが辺りを覆う。
床に突っ伏した格好の鷹守が走らす、筆の水気が弾けるのまで聞こえてきそうだ。
「だからあんたは優しいんじゃなくて——」
彼は私を引き留めようとしている。どうして察したのか、ここで別れた後は二度と会えないと気づいている。
だけどそんな価値は私にないんだよ。そう教えてあげたかった。鷹守瞬と高橋直子の違いが、その理由になると思った。
なのに、答えが出ない。
「じゃなくて?」
筆をバケツに突っ込み、彼が私を見る。こんな自分を表す言葉なら、すぐに浮かんだ。
滑稽、と。
「……ええと、ごめん。どう言えばいいか、言葉が見つからない」
「うん大丈夫。こっちも、もう少しかかるから」
なんで笑えるの。
聞こえないよう、呟いた。鷹守のお母さんと、おじいちゃんと、四人で食べた晩御飯が頭に浮かぶ。
立ち尽くしていた私は、冷たい床にぺたんと尻もちをついた。
「ねえ、高橋さん」
「なに」
俯けた目を強引に持ち上げる。彼は描く紙を見つめ、忙しく筆を動かし続けた。
「やっぱり高橋さんは呪われてると思う。だけどこの絵ができたら、僕が解いてあげられるかもしれない」
なんでそんなこと言うの。三倉の兄ちゃんは呪ったりしない。
力なく文句を言ったが、鷹守はもうこちらを向かなかった。そのままずっと、絵の完成だけを見て作業を続けた。
十分も経たないうち、寒さがシャレにならなくなった。暗幕も使ってしまって、代わりに見つけたのは背景の描かれた布。
絵の具の着いていない面を、彼にもかけてあげる。拒否されるかと思ったら、しっかりと包まって可愛いと思った。
子チワワみたいだから、だ。
それから三時間近く。時計は午後十時を回る。
もうすぐだから、という言葉も何度目か。突然、けたたましいメロディーが静寂を壊した。
心臓が跳ね飛ぶ。動悸を手で押さえつつ、音色の元を探す。
それは私のバッグの中。スマホの着信を示す画面に、お父さんと表示されている。
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