第53話:理解できない
きゅるるるる。
前触れはなかった。山盛りのお世辞を含めば、小鳥の囀りかなと言えなくもない高音が鳴った。
犯人は私のお腹。
きゅぅ、とか。くう、とか。少しくらいならいい。五秒ほども続くなんて、どれだけ腹ぺこなのかと思われる。
かあっと、顔が熱くなった。
空腹の感覚はなかったのだけど、考えてみると今朝からなにも食べていない。
いや、違う。ゆうべもカレーの味見をしただけだった。
「あっ、ごめん。お腹すいちゃって」
えへへっと照れ笑いで言ったのは鷹守。
偶然に彼のお腹も鳴っていた? なんてことはない。私を気遣って、自分のせいにしてくれたのだ。
その優しさはとても嬉しい。でもお互いだけの状況で、私はなんと答えていいのやら。
「パンならあるんだ。高橋さんも食べる?」
「え、いいの?」
「前に食べてたから、好きかなと思って」
手探りで、鷹守はメロンパンを取り出した。彼自身のは、ミルククリームが挟まったフランスパン。
「男子も甘いの食べるんだね」
「食べるよ、普通に。ああでも僕は、かなり好きなほうかな」
言いながら、彼の歯がフランスパンを毟り取る。おいしそうに頬張り、どうぞどうぞと身振りも。
じゃあ、と私もメロンパンの袋を破る。
「わざわざ私のも?」
「僕は料理できないから」
用意のいいことだ。リンゴジュースとお茶と、ペットボトルも二本出てきた。
お返ししたいけれど、なにもない。改めての機会も。
「高橋さんは、どうやってできるようになったの?」
「スマホだよ。普通そうでしょ」
「かなあ? 僕は習おうと思ったことがなくて」
料理教室とか、誰かから直接ということもあるだろう。しかし人に教えられるほどに上手な誰かは、そうそう身近に居ないと思う。
「そのスマホはいつから持たせてもらった? 僕は高校入学と一緒にだった」
「私は中学校へ入る時かな」
「えっ! そうなんだ、欲しいって言ったの?」
なんだろう、ひどく驚かれた気がする。それは一瞬で、彼は元通りに笑っているけれど。
「なにか変だった?」
「ううん、僕が勝手に最近かなと思ってただけ。こうじゃないとおかしい、っていうのはないよ」
「そう、良かった」
どうであれ、今さらか。思い直し、スマホを貰った時を思い浮かべる。
「ええと、お母さんが友達と出かけた時かな。みんな子供にスマホを持たせてる、って。合わせたみたい」
「ああ……」
なるほどねと頷く鷹守が、笑みを鈍らせた。やはりなにか、おかしいのかも。
「どうしたの? 変なら変って言ってよ」
「なにも変じゃないよ。いつスマホを持ったって、誰から料理を習ったって。少数派が悪いなんて決まりも常識もないんだよ」
フランスパンを食べきって、彼はお茶をごくごく飲んだ。その手を暗幕の中に入れ、「寒いね」とすり合わせる。
「私は少数派ってことね」
「どうかな。調べたわけじゃないし、分からない。少数派なのが気になるなら、僕は他に知ってるよ。間違いなく、高橋さんが特別ってこと」
今さらだ。三倉の兄ちゃんのところへ行けば、どんな人間が普通かなんて関係ない。
兄ちゃんならなんでも許してくれる。もしダメなことがあれば教えてくれる。
しかしそれなら、聞いてもいいのではと思えてきた。なんというか、そのほうが後腐れない。
「ええと。なに?」
「高橋さんはね、料理が上手なんだよ」
「ん?」
「じいちゃんと母さんと、劇団のみんなが褒めてた。クッキー、焼いてきてくれたでしょ。みんな高橋さんには言わないけど、また食べたいってうるさいくらい」
ん? ん? ん? と頭の中に疑問だけが並ぶ。
なにが特別なのか分からないのは、私の国語能力が低いからかと心配になる。
「クッキーくらい、言ってくれれば——じゃなくて、なに? ごめん、どこが特別なの?」
「ダメ? 他にもあるよ、高橋さんは裁縫が上手なんだ。アイロンもね。繕ってくれた布、舞台で背景に使ったんだけど、新しくしたのかって言う人がかなり居た」
いやいや、それはお世辞にも程がある。遠目になら分からないよう考えはしたけど、新品と見間違えるのはあり得ない。
そしてやはり、どこも特別でなかった。
「それは」
「もちろん縫い目を見せたら、直したのはすぐに分かったよ。だけどみんな、揃って同じように言うんだ。ミシンじゃないのにミシンで縫ったみたいだ、って。すごく几帳面な縫い目で、僕もそう思った」
分からない。分からない。
そんなつまらないことで褒めたように言って、逆にバカにしている。そういう意地悪かと思ったけど、鷹守がまさかと首を振った。
「あとね。これは僕が被害を受けたから、ちょっと怒ってるんだけど」
怒ると言いながら、彼はすごく嬉しそうに笑う。私が途轍もなくおバカになったのか、鷹守がおかしくなってしまったのか。
なんだか怖い。
「なに……」
「じいちゃんが褒めてた。あんなに綺麗に箸を持つなんて、最近の若い子には見たことがないって。食器を洗ってくれるのも丁寧で、傷つけないように優しかったって。あ、これは母さん」
わけが分からない。やめて、と叫びそうになった。大きく息を吸ったところで、暗い中へ居る理由を思い出したけど。
「ごめん。あんたがなにを言ってるか、ほんとに分からない。被害を受けたって、なんのこと」
「じいちゃんも母さんも、あんな子だったらって僕を見るんだよ。そう言われたって、すぐに高橋さんみたいになれるわけないのに」
もう無理だ。今度は「やめて」を堪えなかった。もちろん鷹守に届くだけの、小さな声で。
同時に彼の口を塞ぎ、どうしてこんな意地悪をするのかを問う。
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