第52話:暗がりの対話

 やがて、見回りの先生が戻ってくる。アニメかなにかで見たように、靴音をカツーンカツーンと響かせて。

 近づくに連れ、私の心臓も強く打った。悪いことをしているみたい——ではなく間違いなく悪いのだけど。


 部室の扉が音を立てた。開けようとしても、鍵をかけたから開かない。もちろん照明も消してある。

 この部屋に居た生徒は帰ったのだと、疑うこともなかったらしい。もう一方の扉も鍵のかかっていることをたしかめ、足音は遠ざかった。


「ふうっ」


 すっぽりかぶっていた暗幕から顔を出す。もしも扉を開けられた時のため、保管されている荷物の仲間入りをしていたのだ。

 淀んだ息を思いきり息を吐き出しても、はあはあと乱れたのがなかなか戻らない。


「暖かいけど、息苦しいね」


 同じ暗幕から鷹守も顔を出した。どうにか表情の見える、暗い部屋の隅。ダンボール箱の陰に隠れた私達は、肩を寄せ合う。

 どうも彼に視線を向けづらいのは、きっと緊張のせい。


「あと二、三十分くらいは、このままがいいかな」

「でもその後、また誰か見回りに来ない? 宿直っていうんだっけ」

「ないない。代わりに警報機とかセットされてて、僕達も外に出られないけど」


 うん? と首を傾げる。言われて納得はするけれど、警報機まで知っているのは普通なのか。


「なんでそんなこと知ってるの」

「ん。あはは、実は初めてじゃなくて」

「それも絵を?」


 一瞬の迷う表情から、鷹守は照れて笑う。


「結局は描いてたけどね。そもそもは母さんとケンカしたから」

「お母さんと? ケンカ?」


 たぶん聞き違えた。並び立つはずのない、二つの言葉。ましてあの優しくて朗らかな、鷹守のお母さんとなんて。

 かなり怪訝に問い返したと思うのだけど、彼は軽々に「そうそう」と。


「高校生になったんだから、ぼんやりしたこと言ってないで、具体的な目標を立てろって」

「進路の話ね」

「うん。劇団のみんなとか、誰かのためになにをやっても、それでご飯は食べられないから」


 ズキッと胸が痛む。私も似たようなことを言った。見返りもないのになどと、より浅ましい言い方だったが。


「言われて嫌だったわけじゃないよ。でも母さんはあれこれ考えて、ようやく言ったんだろうけど。僕からしたら突然だった。考えてたことを言葉にするには、時間が足らなくて」

「すごいね。時間がかかっても、言葉にできる考えがあったってことでしょ」


 大人の作る劇団という空間で、なにかを作り上げるのが好き。彼は私にそう言った。

 実際にあれこれやってみて、将来はその中から見つける。いま思えば、おそらくそういう意味だったのだろう。


「ううん、具体的にはならなかった。母さんの言う通り、僕はぼんやり適当に考えてただけって分かったよ。だからそれから、考えるようにした。まだまだ具体的になってないけど」

「お母さんと、おじいさんと、相談してるんでしょ? あんたなら、自分の思うようにできるよ」


 鷹守なら、だ。取り柄のない私では、相談もなにもあったものじゃない。


「高橋さんはなんて言ったの。進路相談の時」

「それも今はどうだかだけど、普通の事務員さん」

「ああ、数字は得意なんだっけ」


 再び私は首を傾げた。得意とまで言わないけど、数学の勉強は好きだ。

 しかしそれと事務員との関係が分からない。


「事務員って、書類の整理とかするんじゃないの」

「僕も詳しくないけど、そうだと思うよ。書類っていうのがお金の計算とかだから、数学の好きなほうが合ってるんじゃないかな」


 画面で見る事務員さんに、パソコンで書類を作るイメージしかなかった。それを取り引き先とかに持っていくから、学校で配られる事務連絡のプリントのようなものと。


「そうなんだ——」

「事務員さんって、高橋さんがなりたいと思った?」


 じいっと、鷹守の眼が私を窺う。バカにはしないと思うけど、呆れられたかもしれない。


「ううん。自分になにができるか、全然思いつかない。お母さんが、事務員ならできるって」


 少し見栄を張った。できるとは言われなかった。その罪悪感も手伝って、どんどん恥ずかしくなる。

 事務員さんもそれで給料を貰うのだから、難しいこともたくさんあるに違いない。だというのに、私でもそれくらいならと決めつけていたのが。

 しかも聞いた彼まで、なにも言わずに私を見つめた。


「そんなに見ないで、恥ずかしいから」

「ねえ高橋さん。無理にとは言わないけど、お父さんやお母さんのこと聞いてもいいかな」

「えっ。いいけど、なにを?」


 立てた膝に顔を埋めた。暗幕が埃くさかったけれど、ちょうどいい。

 そんな私に両親のこととは。藪から棒という言い回しくらいは知っている。


「いや、どんな人かなと思って。仕事とか、家に帰ったらこんなことするとか」

「うーん、お父さんは建築系だよ。施工管理って言うんだったかな、中身はよく知らない」

「たくさん稼いでくれるって言ってたね」

「うん。毎月、普通の人のボーナスくらい貰うって自慢してた」


 ああ、そんな話もしたのだったか。実際の金額は知らないし、食費以外にどう使っているかも知らない。


「それでお母さんは、ショッピングモールのパート。毎日、忙しそうに出かけてたね」


 忙しくしている、と現在進行形では言えない。その感情を鷹守にぶつけないよう、平静にしたつもりだ。

 おかげか、「うんうん」と相槌があった。


「家族で出かけたりは?」

「覚えてないけど、私が小さい頃は行ってたみたい。保育園までかな、お父さんの知り合いと海で撮った写真とかあるよ」


 答えてから、お父さんの話は良くなかったかもと気づく。ただ彼の問いに答えるには、避けるのも難しい。


「誕生日とかクリスマスとか、イベントは?」

「それも覚えてないね。鷹守は覚えてる?」

「そうだねえ、全部じゃないけど。特に嬉しかったのは覚えてるよ」


 小さい時を覚えているのは、どれくらいが普通なのか。私は正直なところ、なに一つと言ってもいい。

 川に落ちたあの記憶が、例外中の例外だ。


 それはさておくとしても、聞く鷹守もつまらないだろうに。暇潰しにしたって、できることは他にもあるはず。


「ごめんね、面白いこと言えなくて」

「そんなことないよ。面白いっていうか、知りたいから」


 興味本位でも構わなかった。なにも波乱のないことが恥ずかしいくらいで、隠すような事件がない。

 しかしそれにしては、彼も楽しそうと思えなかった。例えるなら、授業中にノートを取るような真面目な顔をしている。

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