第51話:タイムリミット

 普段の生活で見かける文章より、漢字の割り合いが格段に多い。

 意味の分からない語句はそれほどないのだけど、それらを繋げた意味となると、文節ごとに「ええと」と考えなければ入ってこない。


 そんなことを繰り返していれば、文字の海のどこを航海していたか見失う。慌てて元の位置を探し、代わりに直前の文章の意味を忘れる。


 本を読むって、なんて大変な労力を傾ける作業だろう。

 まあそれでも五回ほど捲ったころ、ページの半分くらいは目を逸らさず読めるようになったけど。


 忠臣蔵とは、江戸時代にあった本当の事件を元にした物語らしい。

 浅野という偉い人が、吉良というもっと偉い人に切りかかってしまい、切腹させられるのだ。


 しかもそれだけでなく、浅野さんの家臣はみんな仕事をなくす。社長のミスで、会社が丸ごと潰れたようなものだろう。


 でも浅野さんの腹心、大石内蔵助さんたちが処分の撤回を求めて立ち上がる。

 ただしそれも叶わず、せめて浅野さんの名誉のために吉良さんだけは討ち取ろう。

 たぶん、そういうお話だった。


「う……」


 頭が痛い。

 最後の二十ページくらいは、ここで本を閉じたらもう再開できない、という気がして駆け抜けた。

 物語のあちこち。込み入った文章を、同じように読み飛ばした箇所が幾らもあった。


「大丈夫?」


 眉間やこめかみを揉んでいると、鷹守が窺う声で言った。


「うん平気。あと二十ページほど厚かったら、脳みそが噴き出してたと思うけど」

「そっか、良かった。あはは」


 冗談を冗談で返しつつ、慰めるように彼は笑う。

 頭痛は本当なのだけど、本気で案じられても困る。私はしばらく、頭や首のマッサージに専念した。


「あれ、暗い」

「五時過ぎだからね」


 顔を上げると、窓の外が薄墨色に染まっていた。言われて時計を見ると、時間もたしかに。天井で蛍光灯も煌々と照る。


 途中、何度かトイレには行った。絵の進捗を尋ねてみたりもした。

 だからかなりの時間が経ったことは知っていたけど、今この時だけは驚いた。最後に確認したのは、午後三時前だったのにと。


「本を読むの、初めてなんでしょ? なのに一日で、すごいね」

「なんで初めてって決めつけるの」

「あ、ごめん」


 保育園の絵本は、ほとんどを読破したはず。国語の教科書だって、毎年の終わる前には。


「初めてみたいなものだけどさ」

「最後のほうは熱中して見えたよ」

「そんないいものじゃないよ。意地みたいな」


 そうだ、いつも持っている頭痛薬があった。こんな物が必要なんだ、と見せつけながら一錠を取り出し、飲み込む。

 と、鷹守は苦笑いでまた筆を動かし始めた。


「なんでそこまで?」

「だってあんた、読まなきゃ教えないって言ったでしょ」

「なにを?」

「机に落書きされたの、急に話した理由」


 ちらちらとこちらを向く彼の顔に、なにを言ってるんだと浮かぶ。

 それは同じく、私も思う。先に声に出したのも。でなければ、せっかく苦労して読み終えた意味がない。


「えっ、忘れたの? 私が本を読み始めたから、落書きされたのを話したって」

「それは言ったよ。でも、読み終わったら理由を言うとは言ってないかな」

「ええぇ?」


 絶対に言った。

 言ったはず。

 言ったと思う。

 たぶん。


 不満の声を、最後まで強く言いきれない。あまりにも鷹守が、自信を持って断言するから。

 反対の立場なら、私はああまではっきりと言えない気がする。


「あははは。絶対に言うとは言ってないけど、言わないとも言ってないかな」

「——からかってる?」


 だとしても、バカにしてではないはず。私を楽しませようとして、鷹守というクラスメイトは、そういう人間だ。

 もちろんその試みが、成功するとは限らないけれど。


「あっ、本当にごめん。怒らせるつもりはないんだよ」

「怒らないよ。あんたのお話の全部に乗ってあげられるほど、余裕がないだけ」


 こんなことをしている状況じゃない。苛立つのは、フッと笑ってしまう自分にだった。

 しかもその状況にしたって、鷹守とのやり取りを放り棄てる必要はさらさらない。


「時間稼ぎをしてるんだ」

「なんの?」

「そりゃあ、絵ができるまでだよ」


 私の目に、もういつ完成と言ってもいいように見えた。よく知った建物と、そこにある風景の絵だ。

 しかしこれは演劇の背景で、なんの・・・絵かと問われれば答えられなかった。


「バスも間に合わないし、それは待つつもりだけど」


 黒を増していく窓の外を眺める。

 峠の上へ向かうバスの時刻は間もなく。今から学校を出たのでは無理だ。

 兄ちゃんのところへは、明日でもいい。これから冷え込んでいく夜を、家に帰らず乗り切れれば。


「もう帰れって言われるでしょ」


 たしか部活で残る生徒も、午後六時まで。合宿の届けでもしていなければ、それ以降は残れない。

 だからか鷹守は答えず、筆をせかせかと忙しくさせた。

 私も急かすつもりはなく、ただ眺める。するとそのうち、見回りの先生がやって来た。


「二人か? 片付けて帰れよ」

「はーい、今すぐ」


 彼がいい返事で筆を置いた。描いていた紙を隅へ寄せようとするので、手伝う。


 なんだ、普通に帰るのか。

 ちょっと意外な気がしたけど、それで当たり前だ。他の教室を見に行った先生を見送り、自分の荷物を纏める。


「高橋さんに、言わなきゃいけないことがあるんだ」


 すっかり帰るつもりで、鷹守に向き直る。それなのに彼は、荷物も持たずに頭を下げていた。


「えっ、えっ。なに?」

「何度も言おうとしたけど、勇気が出なくて。その時間稼ぎなんだよ」


 馬跳びみたいに腰を曲げ、懇願という言葉がぴったりの切羽詰まった声。

 私にどうしろと言うのか、「あの、その」と返答に困った。


「約束は必ず守るから、完成するまで見届けてもらえないかな」


 先生の足音が遠退いていく。鷹守の意図がまだ読めないけど、きっと決断に許される時間は少ない。


「ここで描き続けるってこと?」

「うん」

「そんなの、普通はしちゃダメだよね」


 学校の決まりを守るのが普通。見回りの先生に言われれば、その通りにするのが普通。

 規則がなかったとしても、普通は夜の学校へ居残ったりしない。

 そういう険のある眼と声で言っても、彼の頭は上がらなかった。


「もし——高橋さんが消えてなくなる気がするんだ。その時なにも言わないままだったら、僕は一生、どうしていいか分からなくなる」


 俯いた顔は見えないけれど、想像がついた。今にも泣き出しそうな、だけど堪えて張り詰めていると思う。


 普通、そんなこと言う?

 察しているなら、そっと見逃してほしい。などと責めるような言葉を、鷹守にぶつけられはしなかった。


「どうすればいいの? このままじゃ、居るのがバレるでしょ」

「あっ、うん! そこの箱に暗幕があるから——」


 見つかれば、こっぴどく叱られる。見回りの先生にも迷惑をかけるだろう。これはどう考えても、してはいけない変なことだ。


 だけど彼に従って行う秘密の作業は、なんだかとても楽しいと感じた。

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