第50話:重ねた陰

 真っ白い霞に吹かれる、大きなコンクリート色の建物。前に見てから変わったのは、若い碧の木々が生やされたくらい。

 鷹守の描こうとする全体がどんなものか、まだまったく。


 木々の根元がまた大きく、焦げ茶に塗り潰された。そして繊細に、草花の一本ずつが加えられていく。

 大人が何人も寝転べる広さの紙に、葉脈や虫の喰い痕まで表わす勢いだ。


 たしか初めは、ただの白い紙をいきなり真っ黒に塗り潰した。その次には、大きくグレーを重ねた。

 それなら下描きで範囲を決めて塗り分ければ、手間も絵の具も無駄にならない。

 そう思ったのに。手順が進めば進むほど、意図が見えてくる。


 最初の黒は影になったり、壁の染みになったり。グレーの濃淡によって、コンクリートの質感にも見えた。

 霞んだ白色は雪だと思ったが、どうやら違う。掠れかたに偏りがあって、手前と奥の遠近感を見せつけられる。


 しかもまた、細かく草花を描き始めた。せっかく幻想的な感じがしていたのに、現実感が増してチグハグに思う。

 だけどきっと、後でこれも意味を持つに違いなかった。


 奥まった物、手前のなにかに隠されてしまう物。なるほど、そういう物の重なりを表現する。それが彼の描き方らしい。何度も見てきて、ようやく悟った。

 いわゆる画伯の私なら、区切りのいい範囲を一つずつ完成させる。花壇なら花壇、家の屋根なら屋根と、工場で作ってきたものをただ置くように。


 どれだけ先を見通していれば、こんな描き方ができるんだろう。

 教わったとして私には無理だけど、純粋にすごいと感じる。こんな時でなければ、見惚れていくらでも待ち続けたに違いない。


「ちょっとトイレ」

「うん」


 父と母のこと。ダメな自分。諸々を投げ棄てようとしているのに、なにをしているんだ。

 私自身の、のほほんとしたバカさ加減に腹が立つ。


 ああもう、と叫びたい。だけど彼を目の前に、それは憚られた。だから深呼吸をしようと、教室を出る。

 廊下の窓から、グラウンドが見えた。サッカー部とソフトボール部と、陸上部が練習中だ。


 あの小学校なら、敷地の丸ごとが入りそう。鷹守も小学生のころは、あんな風に走り回っていたのかもしれない。

 私は——。

 思い出そうとして、やめた。川に落ちて以来、誰かと走り回るなんて経験があるはずもなかった。


 眩しい景色から目を逸らし、宣言通りにトイレへだけ行って戻る。

 そういえば、このまま居なくなったらどうするのか。扉を開けようとして、ふと思った。

 荷物を残らず置いてきたので、無理なのだけど。


 出る時もそうだったが、できるだけそうっと扉を開け閉めした。機嫌という名の私の都合で、邪魔したくはなかったから。


「ただいま」

「お帰りなさい」


 でもなんとなく、元の机に黙って座るのも落ち着かない。

 集中しているからたぶん気づかないと思う音量で言ったのに、返答があった。「う、うん」などと、意図しない声が漏れる。


「ねえ、聞いてもいい?」


 続けて言ったのは、彼がくすっと笑ったから。ムカつくのとは違うけど、なんだかそのまま済ませたくない。


「描きながらになるけど」

「今、戻ってこなかったらどうしたの」

「トイレから? それはないよ」


 自分で言うのは平気だったが、鷹守の口からトイレと言われると恥ずかしい。そのせいで、私の声に棘が増す。


「なんでないの。荷物なんて、置いてくかもしれないよ」

「高橋さんは、そんな嘘を吐く人じゃないから」


 延々と、花壇の花が増えていく。繊細に筆を動かす真剣な顔で、そんなことを言わないでほしい。


「私、まあまあ嘘吐きかも」

「嘘を吐かない人なんて居ないよ。もし居たら、それはなんの気遣いもしない人だし」

「そんなんじゃ」


 誰かを気遣うための嘘なんて、そんな上等な人間じゃない。

 言いかけて、やめる。私についてを語るのは面倒だ。上等どころか、なんの価値もないのだから。


「あの小学校に通ってたんだよね。部活とかしてたの?」


 別の話題を探し、すぐに言った。安直だけど、鷹守には分からない。


「ううん。じいちゃんの家にはよく行ってたけど、住んだのは父さんが死んでからだよ。中一の時」

「あ、ごめん——」

「全然。小学校は、なにしてたかなあ。父さんの病院に行ってたのしか覚えてないや」


 最悪の質問をしてしまった。続けて謝るのも申しわけなく、机の上で小さくなる。

 彼は言う通り、気にした様子を見せない。だからと言って、じゃあいいやともならないけど。


 話しかけるんじゃなかった。自分の後悔でなく、鷹守に悪くてそう思う。

 邪魔をしないよう、おとなしく待つ。けれどもじっと動かないでいるのは、ものの数分が限度だ。


 そうだ、こういう時こそ本を読むもの。

 これほど選択肢のないことも、なかなかだ。いかに苦手な読書と言えど、少しは格好になるはず。

 バッグから忠臣蔵を取り出し、表紙を撫でる。買ってきたばかりみたいに、新品同様のページを捲った。


 あっ、無理。

 いきなり全力でのしかかって来る、文字の洪水から顔を背けた。

 スマホと変わらない大きさなのに、なぜ紙に書いてあると読みたくないのだろうか。


「あれ、その本は?」


 狙いすましたように、問う彼の声。その本と言うだけあって、顔もこちらへ向いている。


「借り物。忠臣蔵」

「へえ、劇でやったから?」

「ううん、偶然」


 絵を完成させるのは本気らしく、こうして話すのにも楽しげな表情はない。「へえ」と終わらせたのは、顔を俯けるほうが早かった。


 でも。私から言葉を重ねるべきか、普通はどうなのかを考える間に、また彼が言う。今度は絵に向かったままで。


「終業式の前、高橋さんが休んだでしょ。あの日だよ、僕の机が落書きだらけになってた」

「えっ?」

「サインペンとかで、かなりカラフルに。クラスのみんなや、先生の悪口ばかりだった」


 一瞬、なんの話か戸惑う。しかし後田さんの言った、机の件と思い当たる。


「すごく濃く塗り重ねてあってさ。この部屋で落としたんだけど、溶剤を一本使い切っちゃったよ」


 昨日はおでんを食べすぎて、からしを一本使い切っちゃった。耳に聞こえた音が間違いで、本当はこう言っているんでしょと思う楽しげな声。


「落書きって、沢木口さんが?」

「さあ、どうかな。見たわけじゃないし」


 落書きと復唱しても、訂正がない。

 ああ、思い出した。休んだ次の日、たしかにシンナーみたいな臭いがすると思った。


「ええと、急にどうしたの? さっきは言いたくなさそうだったのに」

「高橋さんが忠臣蔵を読み始めたから、かな。そうでなくても、言うつもりだったけど」


 どういうこと? 意味が分からない。

 声に出して聞いてもみたけど、彼は答えなかった。「読書の邪魔してごめんね」と謝るだけで。


 関係あるのか。推測しても、読んでみなければ答えに辿り着けない。

 どちらにせよ、待つ時間はまだまだ終わりが見えない。もう一度、閉じた表紙を開いてみる。

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