第47話:雪解けは遠く

 また雪が降り始めた。バスが峠を下りきるまでにやむ程度だったが。

 午後六時過ぎ。自宅への道端に、避けられた雪が僅かに残る。道路の真っ黒なシャーベットは、すっかりなくなった。ただしびしょびしょで、明日の朝はきっとカチコチに違いない。


 アパートの前。見上げると、窓に灯りが見えた。両親の寝室だ。

 晩御飯はカレー。お風呂に入って、洗濯をして。あとはなにもしない。母とひと言も話さずに済めばなにより。


 もし話しても、それで終わりだ。

 毎日のように、母はたくさんのことを教え続けてくれた。けれどもなに一つとして身につけられなかった、どうしようもない娘だ。


 それを心の中で謝ること。叶うはずもない背伸びをしなくていいこと。

 そういう気持ちを眺めていれば、あっという間に終わる。むしろもっと聞かせて、とさえ感じるかもしれない。


「ただいま」


 答えのあったことがない、帰宅の挨拶。聞こえるのは、いつもより大きなテレビの音。

 いや音楽か。誰かのライブ動画でも見ているらしい。


 自分のテーブルへ荷物を置き、すぐ料理に取りかかった。服もコートを脱ぐだけで、着替えない。

 にんじん、玉ねぎ、じゃがいも。炒める工程は省き、すぐに鍋へ放り込む。

 冷凍庫の鶏肉もそのまま入水。カレーと決めたのは、なにも考えなくて出来上がるから。


 じっ…………と。

 鍋の中を見つめた。透明な水に脂が溶け、対流が目に映るようになる。

 僅か覗く鍋底に、飽和した空気が小さなドームを大量に作る。コトコトと鳴り始めたにんじんが、うっかり下にしたじゃがいもを押さえつけた。

 でも混ぜることはしない。そこまで気遣わなくとも、焦げつかないはずだ。


 しなくていいことは、したくない。

 黒ずんだアクだって、ミルクコーヒーに見えなくもなかった。カレーにコーヒーは隠し味になるそうだし。


 中火で二十分。計ったわけでなく、にんじんを摘み上げてみることもなく、ジャワカレーの中辛を落とす。

 ぐるぐる。ぐるぐる。じゃがいもが砕けるのも構わずに混ぜていく。


「できた」


 誰に向けてか。たぶん私に、呟いた。床に接着したみたいだった足を動かし、自分の部屋へ。

 またすぐ準備をして、お風呂に入った。それから洗濯機に乾燥までを任せ、これで予定のほとんどは終わりだ。


 寝室の扉は動かなかった。カレーの臭いが届いているはずなのに。病気の時でもない限り、晩御飯を食べなかった記憶はないのだけど。

 もしかして、今日は父が帰ってくるのか。それならいつもの午後八時ころまで待つはずだ。

 どうであれ、私は食べられない。好きにしてもらおう。


「ごめんなさい。お母さんと同じになれなくて」


 絶対に聞こえない、小さな声で謝った。母は祖母の思う人間になれたのだろう。私にはできなかった。

 せめてこれ以上がっかりさせないよう、閉じこもることにした。


 部屋の戸を閉め、次の朝まで開かなくていいことを祈る。誰にともなく。

 それには、さっさと寝てしまうのがいいだろう。兄ちゃんの朴の葉を栞に、忠臣蔵を開いてみよう。そうすればものの一、二分で眠れるはずだ。


「ない」


 棚にあるはずの葉っぱがなくなっている。

 置き場所を間違えたか。それとも別の場所へ動かし、忘れているか。動きの鈍い頭を殴りつけ、記憶を辿った。

 でもどう考えても、この棚になければおかしい。


 落としたのかも。床に這いつくばり、可能性を潰す。スマホのライトで照らしてみたし、終いに棚そのものを動かしてもみた。


「どこ行ったの……」


 赤茶色の、絵に描いたような美しい姿をはっきり覚えている。兄ちゃんがくれたというなら、捜し出さなくては収まらない。

 三本のタンスも全て動かし、あるわけがなくとも引き出しを残らず浚った。が、結果は同じ。


 ——お母さんが。

 捜索しつつ、考えまいとした可能性だけが残る。昨日、母が出かけるのに荷物を散乱させていた。その時にどうかしたのでは、と。


「お母さん」


 迷うことなく。寝室の扉越し、声をかけた。しかし反応がなくて、仕方なく扉を開ける。

 瞬間、うるさかった音楽が鳴りやんだ。パジャマ姿の母が黒いテレビ画面を見たまま、ボソリ。


「なに」

「あの。棚に置いてた葉っぱ、知らない?」

「葉っぱ? 知るわけないでしょ」


 間髪入れず、触れれば怪我をしそうな声が返った。

 どうだっけ、と考える暇もなかったそんな返事を信用することはもちろんできない。


「でもお母さん、棚の物動かしたよね」

「私の物もあるんだから当たり前でしょ。あんなゴミ、大事にしてないでよ」

「知ってるじゃない!」


 ゴミ。

 その言葉で察した。動く気配のない母をそのまま、キッチンのゴミ箱へ走る。

 野菜の切りくずが散らかるのも構わず、床にひっくり返す。


「ひどい……」


 特に隠してはない。半分に千切れた破片が両方とも、握り潰したとしか見えないひび割れでくしゃくしゃだ。

 触れればバラバラになりそうに思えて、そっと掬い上げる。硬かった葉が、生ゴミの水分でよれよれになっていた。


「なにしてんの!」

「……大切な物なのに」

「はあ? たかが葉っぱでしょ。それよりどうすんの、くさいじゃない!」


 わざと蹴りつけるように床を踏み鳴らし、母が背後へ立った。

 へたり込んだ私は、振り向く気力もない。


「片付けなさい」

「片付けるよ。私しかしないもん」

「なに、文句? 親に向かって、底辺の人間のすることよ」


 イライラと棘にまみれた声で低く唸る母。それでも今は謝るとか、言われた通りに片付けるとか、なにをできる気もしなかった。

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