第46話:忘れもの

 風味の失せたカステラを、喉に詰め込む。おばさんとおじいさんの、心配そうな目がいたたまれない。


「小学校へ戻ります。ありがとうございました」


 あれだけ強引に聞き出しておいて、なにがあったか問われても答えられない。

 今まさに両親が離婚の危機とか、そこで自分がどうしたらいいとか。そんなことを相談されても困るに決まっているし、普通に言うべきでなかった。


「なにかできることとかあったら——」

「いえ、すみません。実はお母さんとケンカみたいな状態で。だからちょっと知りたくて」


 これで言いわけになるだろうか。深く頭を下げると、お二人が顔を見合わせて黙る。

 嘘は言っていない。でも自分勝手だ。

 罪悪感でお腹が痛い。玄関を出るまでに、何回のおじぎをしたやら。


「おばさんたちに言いにくいことなら、瞬に言ってやって。意外とやる子だから」


 見送り際、ご近所も憚らずにおばさんの大声。振り返ると、目を見張ったおじいさんも頷く。

 同じだけの声量は恥ずかしくて、なんとかの一つ覚えで頭を下げた。


「ふう……」


 重いため息。

 本当にありがたいけれど、同じ分だけ申しわけないとも思う。

 あの状況から、実は——と相談できる人が居るのだろうか。遠慮するのが普通だ。


 優しいお母さんと、おじいちゃん。


 温まった空気を逃さないよう、自分を抱きしめるようにコートを押さえた。

 これから小学校へ戻って、またバス停からバスに乗って。時間を計算すると、あまり猶予がない。


 沢木口さん、まだ居るのかな。

 またなにか言われれば時間を取られるし、なにより悲しくなる。急いだほうがいいのに、足の動きが鈍った。


 考えまいとすると、余計にあれこれと頭に浮かぶ。彼女にツッコまれるようなことがないか、きりもなく。


「あ……」


 コートの下のトレーナー。これを見られたらどうしよう。

 私が買い物に行くどんなお店でも、参考にするネットショップでも見たことのないセンスの服。


 彼女がどういう評価を下すか、好意的な反応を想像できなかった。自分で買った物なら、そうかと諦めもつくけれど。


 変な服。どこで買ったの。逆に似合ってる。

 沢木口さんの言いそうなことが勝手に浮かび、応じる言葉を雪の上に捜す。

 文句をつけるのなんて、いくらでもできる。いちいちその返事を用意するなんて、際限がない。


 そうだ、刺繍を千切り取れば。

 名案に思えたけど、無理だ。ハサミもなしにできるわけがないし、帰ってから母に知られればもっとややこしいことになる。


 雪のじゅうたんにやすりを掛けながら、それでも小学校へ辿り着いた。

 辿り着いてしまった。対策のないまま。

 グラウンドの端を行けば、半ば辺りでガヤガヤと賑やかな様子が伝わってくる。楽しげな空気が、私はエラ呼吸だったっけと思うくらい息苦しい。


 足音を忍ばす私は、限りなく泥棒っぽかった。灰皿を囲む人たちに紛れ、そっと覗く。

 下足スペースに——居ない。受付の席には、三十前後の知らない男性が一人。


 じゃあストーブのところ?

 平静を装い、駆け足で鳴る心臓を知らぬふりで、体育館の中を見渡す。


「居ない……」


 身を隠した引き戸にもたれ、思わず声が漏れた。お腹の底から、淀んだ息が流れ出る。


「高橋さん!」


 と、やたらに元気のいい声で呼ばれた。誰かはすぐに分かったけど、背中が縮こまる。

 黒づくめの子チワワが、中程から駆け寄った。急ブレーキで止まったので、手にある絵の具用のバケツが水を跳ねさせた。


「あっ、ごめん」

「まだ描くものがあるの?」

「どうしてもじゃないけど、気になって」


 やはり持っていた雑巾で、彼は床を拭く。しゃがんで、立って、使ったらしい絵筆を振って見せる。


 なにがそんなに楽しいんだろう。

 学校で沢木口さんたちに買い物を頼まれても、ずっと笑っていた鷹守。その時よりもっと、底抜けと言ってもいいくらいに。


「どうかした?」

「ううん。もう時間がないから、手伝えなくて悪いなと思って」

「いいよいいよ。たくさん話したんでしょ?」


 彼の表情に、窺う色が混じった。私の顔がどうか・・・しているのは、まあ仕方がない。

 どうにか失笑のふりに成功してごまかした。


「あ。ええと兄ちゃんだけじゃなくて、鷹守の家にも行ってきた。昨日のお礼に」

「そんなの良かったのに」

「うん。カステラなんて出してもらって、むしろ悪かったね」

「食べた? あれ、おいしいでしょ」


 普通の会話。私の思う、普通の友達との。

 ずっと自分を普通と思ってきたけど、そうではないんだなと感じた。今こうしていられるのは、鷹守が特別に気遣ってくれるからだ。


 あのカステラは、彼のお母さんが若いころに勤めていた老舗の物ということ。今日、おじいさんは早番で仕事を終えたこと。


 普通に教えてくれる鷹守が憎らしい。


「じゃあ、頑張って」

「ありがとう!」


 いよいよ時間だ、とスマホの画面を見ながら終わりを告げる。眼に埃が入ったふりで、視線を合わせないように背を向けた。

 もうバスの時間は気にしないでいいか。半ば以上、そう考えて。


 彼と話すのもこれで最後だ。他の誰だったらいちばん良かったか、考えるのも面倒くさい。

 けれどもまあまあ、良かったのではと思った。


「高橋さん、待って!」


 もうグラウンドに出てしまったところで、鷹守の声が追いかけてくる。

 別に構わない。急ぐ理由はなくなった。


「どうしたの。なにか忘れもの?」

「いや、ええと……」


 さっきより、増して勢いよく追いついた。今度は完全に、バケツの水が雪の地面に撒き散らされる。


 用があるから呼んだはず。なのに今さら、言葉を探す風だ。

 本当にわけが分からない。しかしこういうところが、彼の特別を作っているのかも。

 そう思えば、観察するのは苦痛でなかった。


「あっ、そうそう。明日ね、学校に来れないかな」

「学校?」

「あの絵の続きをやるんだけど、見ててもらえないかと思って」


 あの絵。なんだっけ。

 うっかり忘れていたけれど、演劇部のアレだと記憶を掘り起こせた。完成するまで見に行く、と約束をしていたのだった。


「明日、用があった?」

「ないけど」

「良かった。僕は朝から行ってるけど、好きな時間に来てよ」

「う、うん……」


 咄嗟に断れず、約束させられた。しかも取り消そうにも「じゃあ気をつけて!」なんて、鷹守は走って体育館に戻っていく。


 どうしよう。

 呼び止めようとした手を、虚しく下ろす。約束があったところで、このまま兄ちゃんのところへ行くことには問題ない。


「葉っぱ——」


 ふと。自分の部屋に置いてある、朴の葉を思い出した。

 ほったらかしだったけど、兄ちゃんがくれた物なら話は別。明日、あれを持って学校へ行き、それから兄ちゃんのところへ。


 これからの予定は、もう動かさない。

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