第45話:流されて

「瞬は小学校に行ってるんだよ」


 卵の風味が鼻を抜ける。カステラをふた口ほど食べたところで、思い出したようにおじいさんは言った。


「あっ、はい会いました。昨日のお礼をしようと思って、私だけで」

「へえ、そのためだけに来てくれたの。さすがにのまえさんの血筋だねえ」


 ビクッと背すじが伸びる。襟もとから、つららを差し込まれた心地がした。


「ええと、ご迷惑でしたか?」

「いやいや、褒めてるんだよ。咲さんを見てても、一さんの家は躾に厳しかったから」


 世の中、ありがた迷惑というものがある。母や祖母を思い浮かべなかったとしても、やらかしたのなら申しわけない。

 そう思ったのだけど、おじいさんは手を振って否定した。「ねえ」と、おばさんにも同意を求めて。


「一さんの家はよく知らないけど、直子ちゃんはほんとに良くできた子だと思うわ。うちなんて、ほったらかしで。こっちこそ迷惑かけてない?」


 頷くおばさんに、ほっとした。良くできた子はさておき、社交辞令ではなさそうだ。


「そんな。鷹守、くんにはすごく助けてもらってます」

「なら良かった。できれば適当に付き合ってやってね」


 私もお世辞ではなかった。なにせ、死にかけたのだから。

 いやそれも今にして思えば、大げさなのか。だとして風邪もひかなかったのは、やはり彼が来てくれたからだ。


「——あの。祖母の家って、近所で噂になるほどだったんですか?」


 おばさんに「こちらこそです」と答えてから、おそるおそるに問う。

 なにが変わるでもないけれど、母の実家について聞けるのは初めてのこと。


「いやまあ、取り立ててどうってことも」


 しまった、と。おじいさんの顔に浮かぶ。優しい人だ、よその家の話を無責任にするのは嫌なのだろう。


 だけど私も、手がかりが欲しかった。

 普通の人間の暮らし。今までの、両親との暮らし。それが他の誰かから見て、どういうものか。


「お願いします。私、母の家のことをなにも知らなくて。さっき褒めていただいたのも、喜んでいいのか分からなくて」


 鷹守の家を、羨ましいと思う。これこそもちろん、無責任な他人の主観だろうけど。

 ただ、彼が強くて優しいのは間違いない。私とは正反対にだ。

 その理由が、もしかして家にあるのか。責任転嫁としか思えないが、まさかと。


「いやねえ……」

「お願いします」


 答えによらず、心置きなく兄ちゃんのところへ行ける。違うとすれば。絶望する相手が自分か、それとも親かという部分。

 だからいつしか、私の額は畳に擦りつけられていた。


「そんな直子ちゃん。なにがあったか分からないけど、落ち着いて」

「お願いします」


 さっと真横へ滑り込んだおばさんが、私を引き起こそうとした。

 しかしここまでして、聞けずじまいでは困る。


「うーん、儂らの歳なら誰でも知ってることだけど」

「はいっ」


 お願いしますとごめんなさいを繰り返した。するとおじいさんはため息混じり、答えてくれる。

 学校のどんな授業の時よりはきはきと、熱心な声で私も返事をした。


「咲さんが二年むすめの時だよ。二年目の巫女さんは、御倉神社に泊まるんだ。その晩、なぜか川に流されてね」

「ええっ、おかあ——母が?」

「うん。青年団で二、三十人も出たかな。幸い、すぐに見つかったけどね」


 私の話と勘違いをしていると思った。けれども捜索に、そんな人手が出たはずはない。

 私が三倉の兄ちゃんに送ってもらった時、この集落はいつも通りの静かな夜を過ごしていた。


「その次の朝。溺れた咲さんを連れたお母さんが、町じゅうに頭を下げて回ったんだ。礼儀正しいというか、きっちりしてるというか。それは間違いないけど凄まじい、ってね」


 これで終わりと示すように、おじいさんは自分のお茶を啜る。クッキーも何枚かまとめて口へ放り込み、もう喋れない。

 丘の頂上を越えた川まで、なにをしに行ったか。さらに聞いてみても、おじいさんは知らないと首を振った。

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