第44話:温かい空気

「じゃあ、また来るね」

「ああ」

「次、来た時は——」

「ああ」


 おいなりさんは三つあった。兄ちゃんが二つ、私が一つ。

 食べ終わって、腰を上げた。もう少しだけ考えろと言われたが、それはどれくらいかと思いつつ。


 次の約束をして、期限にすればいいだろうか。そうも思ったけど、口にしなかった。

 もう一度「またね」と、参道を下る。兄ちゃんの返事は聞こえなかった。


 だからというわけでなく、足を止めて振り返る。本殿の階段に座る兄ちゃんは、「どうした?」と微笑む。


「今日は読んでないんだね。本」

「ナオの話の種になると思っただけだからな」


 さっと立ち上がった兄ちゃんが、お尻のポケットを探る。手にしたのは、焦げ茶色の大きな朴の葉。


 どうするんだろう。

 兄ちゃんのことだ、なにを疑う理由もない。ただ興味だけで見ていると——見ていたはずなのに、いつの間にか本に変わっていた。


「読んでみるか?」

「本は苦手だけどね」


 茶色の表紙に、忠臣蔵とある。表紙のカバーや作者名もない、飾り気とは無縁の本。

 ぱらぱら捲ってみると、きちんと活字が並んだ。しかし足りない物が。


「あれ、栞の葉っぱは?」

「ナオも持ってるだろ」

「私が?」


 受け取った覚えはない。すぐの返事は、首を傾げてだった。

 しかし言った後、思い出した。


「もしかして、あの葉っぱ?」


 頼まれた手紙を投函したのに、届かなかった。けれどもなぜか、郵便受けに朴の葉が入れられていた。

 たしか、棚に置いたはず。思い浮かべて問えば、「それだ」と兄ちゃん。


「私が考えてるのまで見えるの?」

「見えるわけないだろ」

「あはは、適当」


 まあ普通、葉っぱの心当たりなんてそうそうない。笑って見せると、我ながら空々しくなった。

 でもおかげで兄ちゃんも「へへっ」と返してくれた。少し、嬉しい。


「じゃ」

「ナオ」


 本を胸に抱き、足を踏み出す。すると今度は兄ちゃんが私の腕に触れた。


「ん?」

「転ぶなよ」

「えっ、そんなに子供じゃないよ」

「心配なんだよ。転びそうでも手を出さずに、顔面から行きそうで」


 こんな言葉は初めてだ。本当に子供の時だって言われなかった。

 だけど心配と言われて、嬉しくないわけがない。嫌われてはいないってことだから。


「分かった、気をつける」


 どんな顔でいるか、自分でも分からない。借りた本を早速役立て、隠すのに使う。

 表情を整え、頷いて見せた。同じく兄ちゃんも。

 それで手を振り、御倉神社を後にした。




 ほっぺたや眼の周りが腫れぼったかった。まだ用事があるのに大丈夫かなと思ったけど、吹く風が冷たくて治まった。

 鷹守の表札の下、呼び鈴を鳴らす。奥で「はぁい!」と威勢のいい声。

 

「まあ直子ちゃん! 上がって上がって!」


 かっぽう着姿のおばさんは、見るなり私の手を引いた。「いえそんな」と抵抗したのも、聞こえなかったに違いない。


「あの、これ。ほんとにつまらない物ですけど」


 晩御飯をごちそうになった畳の部屋へ通された。洗濯したスウェットを返し、コンビニで買ったお菓子も渡す。

 一応は箱入りのクッキーだけど、五百円もしていない。おばさんは「いいのに」と言いながらも、突き返すことはしなかった。


「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」

「えっ、ええと。こう——ヒーで」


 私の家に常備された飲み物というと、玄米茶かインスタントコーヒーだ。どちらも嫌いではないけれど、たまには違う物が欲しいと思う。

 特に紅茶はなんだか特別に感じる。一つのティーバッグを、一人が一杯のために使うところが。


「うん、分かった」


 鼻歌めいた拍子をつけ、よいしょっと立つおばさん。すぐに台所で、電気ケトルがコポコポと働く。

 残されたのは、ぺたんこの座布団。私のは、またふかふか。取り替えたい欲求を必死に堪えていると、おじいさんがやって来た。


「あっ、ど、どうも昨日はありがとうございました!」

「ええっ、いいよいいよ。風邪、ひかなかった?」


 部屋へ入った足元で、正座の私が頭を下げる。おじいさんは跳ねるように避け、慌てて私を起こす。


「平気です」

「ああ、それは良かった。瞬に電話してみろって言ったのに、番号知らないって言うから。なにやってんだって」

「そ、そういえばそうですね」


 オンスタで連絡は取れるけど、そういう話ではないのだろう。おじいさんは私の体調を気遣ってくれて、鷹守は私に手間をかけさせないよう気遣ってくれた。


「お義父とうさん、これ直子ちゃんからです」

「へえ、わざわざ? それは悪いねえ」


 年季の入った菓子入れに、クッキーが山盛りで戻ってくる。それだけでなく私の前には、ふわと甘く匂い立つカステラが置かれた。

 さらにさらに、並べて出されたのはティーカップ。白地に花柄の可愛い陶器へ、赤茶の液体が湯気を上げる。


 どうしてこんなにしてくれるのか、不思議で仕方がない。おじいさんにもカステラが出されたのに、「儂はこっちがいい」なんてクッキーを頬張ってくれる。


 点けられたばかりのストーブから、まだまだ熱気は伝わらない。それなのになぜ、喉にむせるほどこの家は暖かいのか。

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