第43話:私を縛るもの
「なんで泣いてんだよ」
これからどこへ行くんだろう。
地の果てに?
それとも異世界へ?
などと選択肢を浮かべる間に、兄ちゃんの足が止まる。
連れられたのは本殿へ上がる階段。私を先に座らせると、兄ちゃんは真ん中を陣取った。
いつもここで、饅頭やみかんをくれる。それは今日も変わらず、いなり寿司が突き出された。
「だって今日、会えなかったらもう会えない気がして。怖くて、怖くて」
「なんでだよ」
私の両手は顔を拭うのに忙しく、受け取れない。
噴き出す兄ちゃんは、あからさまにからかう声。だけど見えていないと油断したのか、細めた眼が優しく笑う。
「どうして? 居なくなったの。昨日」
突き上げる嗚咽が私の言葉を乱す。なにを言ってるんだ、と自分でも聞き取りづらい。
「俺が行かなくても大丈夫だっただろ?」
きちんと答えが返った。私の困ったことに、兄ちゃんは答えてくれる。
やっぱり兄ちゃんは兄ちゃんだ。
涙の蛇口がきゅっと締まった。
目を合わせ、頷く。すると視界を塞ぐように、さらにおいなりさんが押し出された。
仕方なく受け取り、ほんの少しだけかじる。甘くて、ちょっぴり酸っぱくて、ほっとする味。
「兄ちゃんは……誰?」
「誰って。俺は俺だよ」
「いつ来たって居てくれるでしょ。スマホもないのに」
へへっ、とごまかす笑い声。私の食べるおいなりさんを見つめ、よそへ向くことはしないけれど。
「前に大学生か聞いたら、そんなとこだって言ったよね。でもここから通うって、おかしいよ」
進路相談の資料に、進学先の冊子があった。車で二時間近い距離に大学はある。普通は学生寮や、近いアパートを借りるらしい。
もし本当に大学生なら、私もそこへ通いたいと思う。でもきっと、そうでない。
「ナオ。それは自分でおかしいと思ったのか?」
「だって私、いろんなことがあって。良くないのは、兄ちゃんに嫌われたかと思って」
呪いはいつからあるんだろう。大雪の日。クリスマス会に誘われた時。
ではなく、ずっとずっと前から? そう考えると身震いがする。
「俺がナオを嫌うかよ。そうじゃなくてそのスマホ? があるとかないとか、ナオが考えたのかって聞いたんだ」
「違うけど——」
声が萎む。なのに兄ちゃんは「だろ?」と嬉しそう。
なんでも知ってるはずでしょ。どうしてとぼけるの。
「だって私、死にかけたんだよ」
「助けてもらっただろ。それで風邪もひかなかった」
「でも」
「でも?」
「沢木口さん、怒ったままだし」
「どうにかしてやろうか?」
違う、そうじゃない。
悲しいとかつらいのとは違う、当て嵌まる言葉のない気持ちが奥歯を軋ませる。
「私なんか、居てもしょうがない」
「なんでそう思う」
「だってお母さん、朝帰りしたんだよ。遠くへ行く荷物で、お父さんも怒ってて。あんなの男でしょ、離婚だよ離婚」
考えないようにしていた。きっと一つくらい、合理的な理由があると思って。
しかし思いつかない。
父の遠出を母は知っていたはず。加えてクリスマスイブ。おそらくもっと早い時間に戻るつもりが、あの雪で帰れなくなったのだ。
母が浮気をしていると考えれば、これ以上ないくらいに筋が通る。
「だとしても、ナオが悪いわけじゃない」
「悪いよ。私がどうしようもない娘だから」
自分の家に嫌な物があって、捨てられもしない。ずっと我慢をしていたら、なにか別の楽しみを見つけたくもなるだろう。
それを、なんでだよと怒れるのは父だけだ。私には資格がない。
「だから私、呪われてたらいいと思ったの。兄ちゃんは誰だろうって、ちょっと怖いと思ったけど」
「俺は……」
「でも好きだもん。お父さんもお母さんも、クラスの誰も。特別と思わないこんな私でも、どこへも行かないように呪ってくれたんでしょ!」
兄ちゃんも私を好きだから、呪いという鎖で縛っている。
それならどんなに幸せだろう。矛盾だらけの妄想を、赤白の服を着た兄ちゃんに願った。
「ナオがやろうとしてることを、俺は邪魔したくない。仲間になったんだろ、助けようとしてた奴と」
「鷹守には私が助けてもらったんだよ」
「じゃなくて、そいつがかわいそうだって言ってたじゃないか」
必死の言葉を無視して、関係のないことを言うとは。兄ちゃんでなければ、まともに話してもくれないんだなと諦めた。
しかし兄ちゃんだから考えた。いつも正解を教えてはくれない。今、なにを言おうとしているのか。
「ああ、うん。いつもパシられてて、でも鷹守は思ったよりずっと強い人だった」
半月前だ。相談したのも忘れかけていたけど、思い出した。
ただし、やはり関係はないと思う。
「仲間なんて、私にそんな価値はないよ。もしそんなのでもいいって言ってくれるなら、私は兄ちゃんの傍に居たい」
「俺の?」
「お、お嫁さんとか」
家事なら普通にできる。お嫁さんが無理なら、家政婦さんでもいい。
ひどい押し売りだけど、引き下がれなかった。
「…………約束したんだ。助けてやるって」
「う、うん」
「だからナオがどうしても。本当にそれ以外ないって言うなら、お嫁さんでもいい」
嫌なんだね。
「でもそうしたら、普通の人間の暮らしには戻れない。それでもいいのか、もうちょっとだけ考えてみろ」
いいに決まってる。
たぶん途中まで声に出たが、呑み込んだ。ぎゅっと力んだ兄ちゃんの眼が、言わせてくれなかった。
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