第42話:神主の家
まだまだ厚い、空を覆う雲。それでも押し固めた白色の道を行くのは、硬いアスファルトよりむしろ歩きいい。
ゆうべと同じ街とは信じられなかった。一夜にして作り変えた。いや昨日の一日だけ、別の場所へ迷い込んでいた。
誰かがそう言いきれば、たしかにと頷かざるを得ない。
「兄ちゃん?」
なにごともなく。逆に嘘でしょと辺りを窺うほどあっけなく、鳥居に着く。
強いて言えば参道の入り口で、倒れたのはここだったかなと立ち止まったくらい。
コンクリートの色そのままの鳥居。左右の大岩にそれぞれ座るお稲荷さん。
ほんの少しの雪を積もらせた他は、いつも通り。ただ、三倉の兄ちゃんの姿がない。
およそひと月に一度、通い続けたのは何十回を数えただろう。
かれこれ、兄ちゃんが待っていなかったのは初めてのことだ。
「兄ちゃん!」
声が震う。怖くて。
けれども会いたくないという気持ちはゼロ。今日、会えないまま帰るのはなしだと思っている。
だけど三度目の呼び声にも、やはり返事が聞こえない。
——それなら。
覚悟を決めた。と言っても特別なことでなく。連絡方法のない相手となると、住む家を訪ねるのは至って普通のはず。
土の参道は土留めの丸太が配置され、歩きやすい。かき氷みたいな雪を踏むと泥が滲み、靴が汚れるくらいで。
しかし境内を目の前に、息が上がった。赤いシャツを探すのに邪魔、というほど白い靄を撒き散らした。
居ない。本殿の下を覗いたりしても。
まあ想定内だ。せっかく覚悟を決めたのに、そんなところへ居てもらっては拍子抜けの感さえある。
本殿の階段前から、脇へ抜けるように二十数歩。丘のてっぺんに向かうのとも違う、この土を踏むのは生まれて初めて。
「お願い……!」
自分の耳にだけ届く叫びを上げ、神主さんが住むための家の玄関へ。
最悪、会えなくてもいい。兄ちゃんが住むのはここだと確信できれば。
そんなのあり得ない。
胸の中、私でない私が呟く。
聞こえぬふりで、表札を探す。普通にそれは、扉の真上に見つかった。
三倉、と。苗字だけが太く墨書された、潔い表札。
知りたいのは家族の名前なのに。カビだか苔だかで斑に汚れているのは知らぬふり。
呼び鈴も見当たらない。
それなら戸を開けさせてもらい、声をかけるのは普通のことだ。
ガラス入りの格子戸に触れる。指先の水分を奪われそうな、渇ききった木の感触。
力を入れても動かなかった。全力には程遠いのに、ミシミシと悲鳴が凄まじい。
鍵はネジを締め込むタイプ。鍵穴は錆で埋まっていた。
「うぅっ」
鼻を啜りながらの短い嗚咽。そんな物音を立てるのは、私以外に誰も居ない。
一歩離れ、見回す。
あった。郵便受け。崩れ落ちた瓦の下敷きで、気づかなかった。
兄ちゃんの名前は知らない。しかし男の子の名前があれば、それに違いないはずだ。
赤い金属の箱を持ち上げ、サインペンの文字を読む。
右端はきっと神主さん。隣が奥さんで——
「ない」
三倉という神主さんはここに住んでいた。でも昔のことで、子供は女の子ばかり。
一瞬、気が遠くなる。落とした郵便受けの音で、自分を取り戻した。
「気が済んだか?」
待ち構えたように。
ではないと思う。間違いなく待ち構えて、兄ちゃんの声がした。濡れた土を踏みしめ、本殿の向こうから姿を見せる。
「兄ちゃんは」
「うん?」
「お姉ちゃんだったりしないよね」
「うははっ。ナオの冗談で、いちばん面白いな」
いつもの兄ちゃんだ。言う通りに楽しそうで、積み上がった怖さが一気に崩れ落ちる。
「ないない。俺は男だ」
笑顔のまま、ぞんざいと温かいの間から聞こえる声。
これをずっと、私が特別な証だと思っていた。これからもそうであってほしい。
「兄ちゃんは、どうしていつも待ってくれてるの」
あれもこれもを問うのは、私の心臓が持たない。だからなにを聞けばいいか、ずっと考えていた。
兄ちゃんは誰で、なぜ私の相手をしてくれたか。そういうことを突き詰めると、この質問になった。
「どうして? なるべく助けてやるって約束しただろ」
「そうだよ。でもそうじゃなくて」
手足が震えるのはどうしてだろう。話すたびに塩からいのはなぜだろう。
拭っても、拭っても、視界が濡れて歪むのは。
「ナオ。来いよ」
くくっ。と笑う兄ちゃんは、悲しそうに顔を曇らせる。差し出された手が、私の一歩踏み出した先にある。
覚悟は決まってる。
ぎゅっと握り返すのに、私は少しもためらわない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます