第39話:雪の下の泥
グレーのコートの前を固く合わせ、バス通りまで走った。時間の余裕がなくなったせいだけれど、そうでなくとも。
一年じゅう使い回す、黒いパンツで良かった。少しくらいの泥はねを、仕方ないで済ませられる。
バス停へ行く前に、コンビニに向かった。かなりの遠回りだけど、他に手ごろなお店がない。
「こういう時は菓子折りって——」
迷惑をかけたのだ、持っていくのが普通だろう。レジの後ろに飾られたサンプルが、分厚いビニールでぼやけて見えにくい。
「カタログ、ありますよ」
年配の女性店員さんが、すぐに気づいて声をかけてくれた。でも咄嗟に
「あっ、いえっ、大丈夫です」
と断った。
お菓子の種類はさておき、安いのでも二千円から。箱の大きさからすると、十数個入りとかに違いない。
誰か一人にならいいが、劇団の人たちにとなると足らないように思う。かと言って、二つ買うのは無理だ。
こんなことなら、またクッキーを焼いておくのだった。
「なにか……」
店員さんはもう別のお客さんの応対をしていた。気遣いの向かないことにほっとしつつ、お菓子コーナーの棚を見る。
クッキーならこちらにも並んで、私の作ったより美味しそうだ。
いやむしろ、菓子折りよりも。
チョコやポテトチップなども含め、たくさんのほうがいいのでは。なにかを壊した謝罪や、お金を貰っての仕事をミスしたわけではない。
こういう場合、堅苦しすぎないのがいい。という考え方もあるはず。財政の問題を都合良くすり替え、解決したことにする。
快く受け取ってもらえますように。願いつつ、買い物カゴをいっぱいにしていく。
——時間を気にしていたつもりだけど、バス停に着くのがぎりぎりになった。
ちょうどやって来たバスに手を挙げなかったら、歩行者と思われてきっと乗れなかった。
いつもは乗ってすぐの一人掛けの席に座るのだけど、今日はいちばん前へ。
もちろん運転手さんの顔を見るためだ。しかし、鷹守のおじいさんではなかった。
お仕事中でも、昨日はありがとうございましたくらい言えれば。背中にのしかかる重みを、さっそく減らせると思った。
不精をするなってことね。
自分を笑うと、少し肩が軽くなる。
街はまだ冬景色だ。ほとんどの屋根が白く塗り替えられている。
道路もどす黒いシャーベットだらけで、集落へ向かう登りに差しかかると、白色が勢力を増す。
クリスマスのベルにしては忙しい、バスのチェーン。やがて路面の雪が硬くなって、かき氷の音に変わる。
ごっ、ごっ、と足下に氷塊の跳ねる感触が。のろのろ運転の車体に、しっかりとつかまった。
やがて。二倍以上の時間をかけて、集落のバス停に到着した。
峠の下とは空気が違う。冷凍庫の中みたいな凍えた風が、輝く太陽の下で不思議に感じる。
深呼吸。
意識すまいとするほど、心臓が強く打つ。
収まりそうもないので、覚悟を決めることにした。
一、二の、三。
勢いをつけ、首を振る。集落の真ん中を突き抜ける、通りの先へ。
「雪かき……」
一面の白ではあるものの、道路の高さはおよそいつも通りだ。代わりにあちこち、軒の高さの雪山が見える。
なにもおかしなことはない。ゆうべたくさんの雪が降って、住む人が普通に雪かきをした。
この道の先、金色の光は見えない。
最後に付け加えたのは、自分への暗示だ。実際には参道の入り口まで行かなければ分からないのだから。
けれどもまずは小学校へ。また少し、足が軽くなった。
さすが小学校のグラウンドは、雪に埋もれたままだ。大きくうねるように凹凸のあるのは、車を動かした跡と思う。
今日また訪れた車の駐められているところ。体育館へ歩く道すじ。そういう辺りにだけ土が見えて、雪原を見るアトラクションみたいだった。
なんだろう。二十人くらい乗れそうな、マイクロバスが来ている。
でも人かげはない。開演時刻は正午だから当たり前だけど。スマホを見ると、もう二十分くらい過ぎてしまった。
そっと体育館の扉を動かすと、今日は素直に開いてくれた。
下足スペースから上がったところに長机があって、受付と書いてある。同じく、入場料が百円とも。
あれ、ボランティアでは?
もちろん百円くらいなら、私でも払える。チケットと財布を出そうとすると、お菓子を買ったレジ袋がガサガサやかましい。
幸い。閉じた内扉の向こうから、問題にもならない威勢のいいセリフが響き続けた。
「高橋さん、大変そうだね」
よく聞く声。長机の方向から。
思わず、肩が跳ねる。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ。持とうか?」
なにが愉快なのか、常に薄く笑った声。
「ううん、軽いから。ありがとう沢木口さん」
「そうなんだ?」
平静を装い、チケットを差し出す。なぜ彼女が受付をしているのか、は考えるまでもない。
例のイトコの男性も一緒だ。青年団が手伝うのを、さらに沢木口さんが手伝っているらしい。
「ああ。その黒いズボン、昨日それ履いてたらピッタリだったのに」
「う、うん。そうだね。このチケット、使える?」
さらさらした雪とは違う。同じ白でも、固まった蜂蜜みたいにベタベタした笑み。
彼女はチケットを取ると、そのまま隣の男性に「使えるの?」と問う。
「ああこれ。支払済みのだから、入ってもらっていいよ」
「だって」
男性の返してくれたチケットを取り、会釈で立ち去ろうとした。
しかし伸びた沢木口さんの腕が、私の腕に絡む。
「昨日も言おうと思ったんだけど。このコート、お気に入りなの?」
「え、その。これしかなくて」
「へえ、そうなんだ。でもいいと思うよ」
開演しているのだから、受付も暇なようだ。男性も長机の下でスマホをいじり、沢木口さんがなにをしようと気にする素振りがない。
彼女はパイプイスを立ち、半ば私にもたれてすり寄った。
「——カーペットみたいで」
いかにも内緒話の感じで。こしょこしょと風音を含む声が耳につく。
さっと飛び退くと、沢木口さんは声を上げて笑った。いつの間にか、お菓子の袋を一つ手にして。
「えっ、貰っていいの? ありがとう」
男性に背を向けた彼女は、般若みたいに顔を歪ませた。それでいて楽しそうな声を出すのは、気色が悪い。
私はなんと答えていいやら、後退って逃げるしかなかった。
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