第38話:マリオネット
この夜、何回の寝返りをしただろう。とても眠くて、スマホを顔へ落とすくらいだったのに。
耳が隠れるまで布団に潜り、目を瞑るとすぐに睡魔がやって来る。
聞こえていた風の音。触れていたシーツの感触と温かさ。現実を繋ぐ感覚が曖昧にぼやけ、なにを考えることもなくなったころ。
どこかで物音のした気がして、全身をビクッと縮こませる。
フクロウに怯えるネズミの心持ちで、夜闇の先を窺う。でもなにもなく、また夢の国に渡りかけたところで目を覚ます。
何度かはベッドを出て、戸締まりをたしかめにも行った。両親が帰ったわけでもない。
気のせいだ。こんな風に落ち着かない理由も分かっていた。
誰かに見られてる。
そう思えてならなかった。棚の陰、天井の隅、カーテンの合わせ目。家じゅうのあらゆる死角になにか——いや、三倉の兄ちゃんが居る気がして。
本当に居るなら、むしろそのほうが良かった。
現実は誰も居ない、と冷静な私の声は弱々しい。どうして助けてくれなかったの。兄ちゃんはなにをしてたの、と震える声は腹の立つほどうるさい。
たぶん午前四時とか五時くらいまで繰り返した。最後はいつ眠ったか、どこまでが起きていた記憶かも朧だ。気を失ったと言うほうが正しいのかもしれない。
「兄ちゃん……」
やがてまた誰かの声で目覚めた。いや、私の寝言か。いつも通り。ちょっと散らかった、使わない物の多い私の部屋。
回した首が軋みを上げる。重い身体をゆっくりと動かした。魂だけが先に起きて、幽体離脱を経験しないように。
二日酔いってこんな感じかな。
眉間の奥、五十センチくらいのところがずしりと重い。頑固そうな頭痛にすぐ音を上げ、薬を取りにダイニングへ。
「嘘、十時半……?」
蛇口の水をコップ一杯。凍る寸前という温度が、一気に目を覚まさせた。
壁の時計は午前十時をとっくに過ぎている。こんな寝坊は生まれて初めてだ。
すぐ用意しなければ、バスに間に合わない。昨日は頼まれた繕い物を放り出したし、鷹守のお母さんとおじいちゃんにもお礼をしなければ。
もちろん御倉劇団のクリスマス公演も。
塩むすびを食べるのも含め、十分で準備は整った。
玄関を出る前、両親の寝室を覗く。やはり二人とも居ないが、帰ってきてまた出かけたのなら分からない。
ともかく少しの余裕を持ってバス停へ行けそうだ。いざ玄関を開けようとすると、扉がひとりでに開く。
「あら、あんた出かけるの?」
よそ行きのスーツを着た母が、そこに居た。ちょっと大きめのバッグと、お買い物をしたらしい紙袋をいくつか提げて。
「お、お母さん。うん、友達のところに」
「じゃあちょうどいいわ。ちょっと入りなさい」
「えっ? えっ?」
時間がないのに。
母がどこへ行っていたかも気になるけれど、バスに乗れないほうが今は困る。
とは言え母の言葉を無視もできず、なおかつ手を引かれてダイニングに戻った。
「これ、買ってきたの」
「私に?」
「だからあんたに言ってるんでしょ」
紙袋の一つを押しつけられた。どこで買ったのか、店名などは見当たらない。
重みもあまり感じず、きっと服だと予想がついた。いつものアレだなと思うと、予想もなにもないけれども。
「あ、ありがとう」
母の癖みたいなものだ。自分が
袋を開けてみると、ケバケバしいピンク色が目に刺さった。今回は厚手のトレーナーらしい。
広げて身体に当ててみる。胸からお腹にかけ、銀糸で刺繍が入っていた。
操り人形のような、線の細い女の子がバレエの雰囲気で踊る。
「わあ、可愛い。ありがとう!」
どんな服でも、母がわざわざ買ってくれた贈り物だ。普通はそこに喜ぶ以外の選択肢は存在しない。
「出かけるならちょうどいいじゃない。それ、着ていきなさいよ」
「えっ、これを?」
「なに、気に入らないの」
バレた?
水平に首を振り、引き攣る頬をごまかす。
「ううん。貰ってすぐに着るのも、なんだか悪いかなって」
「はあ? 意味が分からない。前から言おうと思ってたけど、この薄ピンクのニット似合わないから」
お気に入りのラベンダー色が、無造作に引っ張られた。伸びないよう、慌てて身体を追いつかす。
「分かった。着替えてくるね!」
これはお母さん。
私のために買ってくれた服。
急げばまだバスに間に合う。
大切なキーワードを心に唱え、部屋へ戻った。かわいそうなニットをそっと畳み、新品の布地の臭いに身を包む。
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