第37話:行き違い

 リビング、ベランダ。トイレやお風呂、押入れの中まで。順に灯りを点けてみても、やはり居ない。


 どこか遠くで、凍った雪を踏む車の音。無言の室内で唯一、低く唸る冷蔵庫。

 こんな夜が以前にもあっただろうか。父と母のどちらかが遅いのは、時々。

 考えても、例外の記憶に辿り着けなかった。


「たまたまかな——?」


 まあ私が案じたところで、だ。両親がなにをしていようと、私のやるべきことに変更はない。

 そもそもどちらも、予定をいちいち明かす習慣がない。特に母は、詮索めいたことを言えば叱られる。


「うん」


 納得の声を自分の耳に聞かせ、この時間の普通の私に戻る。

 お風呂に入って、洗濯をしよう。


 ——晩御飯をいただいて、ジムニーの車内もヒーターが利いていて、十二分に温まっていた。

 だけど熱いシャワーというのは、どうしてこうも染み入るのか。「うぅぅ」なんて、おじさんくさく呻いた。


 全身から湯気を上げつつ、乾燥まで全自動で洗濯機のスイッチを入れる。

 使ったタオルと、借りていたスウェットと、ずぶ濡れの服、その他もろもろ。


 髪をごしごし拭き、ドライヤーをかけながら。いつもなんとなく、ぐるぐる回る洗濯物に見入ってしまう。

 今日は特に、紫色が目立つ。ちらと見えるたび、心の中で「あっ」と声を上げた。ちょっとした宝物を見つけたようで。


「あ——」


 十と何度目か。実際の声が漏れた。

 ふと気付いたのだ。このスウェットを見られなければ、私が遅く帰ったのを知られない。


 乾燥が終わるのは、日付けの変わるころ。それまで誰も帰らなければだが。

 無理のある仮定に、自分の幼さを笑った。


 歯磨きも終え、ベッドに転がる。見渡すと、部屋の中が少し散らかりぎみだ。タンスの引き出しに服が挟まっていたり、棚の小物が落ちていたり。

 私の出かけたあと、母がやったに違いない。父と母の釣り竿や上着も私の部屋にある。


 片付けるのは明日でいいや。

 さすがに今からやる気力はなかった。現実逃避にスマホを持つと、通知のランプが光っていた。


「誰」


 父や母からの連絡はあり得ない。あったらそれこそ前代未聞の天変地異だ。

 他に候補というと、後田さんが最有力。だけどなんの約束もしてないのに、と疑問符が付く。


「あれ」


 鷹守の名前が見えた。さっ、と後悔で背すじが冷える。


 しまった、今日はありがとうくらい送っとくべきだった。

 通知からオンスタのアプリを立ち上げると、やはり。


【肉まん食べながら、ゆっくり帰ってます。高橋さんもお風呂とか入って、ゆっくりしてください】


 晩御飯を食べたばかりなのに? いや、ばかり・・・でもないか。

 時刻は十一時を過ぎている。


【なんで敬語? というのは冗談。今日はすごい迷惑かけてごめんね。おじいちゃんとお母さんにも、ありがとうとごめんなさいって伝えて】


 お礼とお詫び、どうしたらいいかな。無難にお菓子とか。

 そう思い、無難にというのは失礼じゃないのかと自己嫌悪する。


 しかしどうであれ、今日はどうしようもない。全ては明日だ。

 ぼんやりした頭で考えても、なにも出てきそうにない。諦めて、不要な通知をひょいひょいと消す作業に入った。


 終わったら無料のゲームをやって、乾いた洗濯物を畳んで、寝る。

 いちばんに考えなければいけないことを、後回しにするため。


 兄ちゃん。呪いなんて、あるわけないよね。


 考えないようにすると、むしろ思い浮かぶ。「気のせい、気のせい」と胸に唱え、ゲームのアイコンに触れた。


 すると画面が真っ暗になり、スマホが揺れる。いつからこんな起動の動作になったのか、驚いたが違った。


「あれ、お父さん」


 黒い画面に【お父さん】と表示されていた。電話だ。


「もしもし?」

「もしもし、お母さんは居るか?」

「えっ、居ないけど」


 通話の向こうに、車の走る音がした。水を蹴立てる感じの。

 父の声が張りぎみなのは、たぶん屋外だから。それ以外はいつもの変わりない。


「そうか、困ったな」

「どうかしたの?」

「今、博多に来てるんだけどな。現場へ入るのに、ワクチンの証明書が要るんだよ。今日はごまかして入ったけどな」


 自慢にならないことを笑い飛ばす父。それでも明日はきちんとしようというのだ、どうにかはなっているのだろう。


「あっ、分かるよ。どうすればいい?」

「写メって送ってくれ。印刷はこっちでできる」

「分かった」


 どうやら父は仕事で遠出をしているらしい。母と一緒に居るものと思いこんでいたが。


「あー、お母さんはいつからだ」

「ごめんなさい。私も昼間出かけてたから、分からないの」

「そうか。証明書、頼む」


 お酒が入っていたのかもしれない。最初は機嫌良さげだった父の声が、最後はじゃあなとも言わず電話を切った。

 細切れっぽく怒ったように聞こえたのは、私が出かけていたからか。


 その辺り、父は母ほど言わないのだけど。

 しかし怒らせたのなら、頼まれたことくらいすぐにやろう。


 ダイニングの大切な物入れを開けると、思った通りに証明書があった。

 どうやら難なく達成できそうだ。ほっと安堵の息を吐く。

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