第34話:鷹守の家族
鷹守の家は、しょう油の匂いがした。彼のお母さんが晩御飯を作る気配もありありと。
壁越しに届く、鍋の煮立つ音。ゆっくりと均一に刻む包丁のリズム。
馴染みのなさに、自分も台所へ行かねばと勘違いしてしまう。
音がやんで、代わりにぎゅっぎゅっと廊下を踏みしめるのが聞こえた。
「あらぁ、直子ちゃん。目が覚めたの?」
障子戸を開けるなり、鷹守のお母さんは枕もとへ飛んできた。続けざま、しっとりと冷たい手が私の額を叩く。
「うーん、熱はないみたいね。気分はどう?」
「だ、大丈夫です。なんとも」
「そう、良かった! ご飯、食べていって。もうできるから」
「そ——」
そういうわけには。
遠慮しようと思ったのに、おばさんの動きは素早かった。
「ん、なにか言った?」
と止まったのは、既に片足が廊下へ出てからだ。道を譲るのに戸の脇へ立った鷹守が、苦笑で目配せをした。
「いえ、なんでもないです」
「そう? 瞬、ちゃんとエスコートしなさいよ」
来た時と同じに力強く、おばさんは戻っていく。残された鷹守も手を出し
「ごめんね、うちの母さんが」
と、いつか聞いたようなことを。
「ううん。いい人だと思うよ」
「いやぁ、よく居るおばちゃんだよ」
引き起こしてもらいながら、否定はできないなと思う。ほどけかけた強いパーマなどは特に。
けれども嫌な感じはしなかった。
「あれ、この服……」
「ああ、それ。母さんのパジャマ。高橋さんの服は、そっちの袋にあるよ」
布団から出て気づいた。自分が濃い紫のスウェットを着ていると。
毛玉だらけで、ちょっと動けばお腹が出そうだ。しかしずぶ濡れだったと言うのだから、着替えさせてもらったに違いない。
「こんなことまでしてもらって、どうやってお詫びしたらいいか分からないね」
「お詫びもお礼も要らないよ。好きでやってるんだから」
ん?
着替えをしてくれたのはおばさんだと思ったのだけど、彼の言いぶりは違うように聞こえた。
「好きでって——まさか、あんたが?」
「えっ?」
だとすると、どこまで見られたのか。下着は今、どうなっているか、思わずめくって見そうになる。
「あっ、いやっ、違うよ! 母さんだよ! 母さんのしたことだけど、僕が勝手に言ってるだけ! 本当!」
真っ赤になった彼は、大げさでなく茹でダコみたいだ。その前に私も、バカにできないくらい顔を熱くしていたけど。
鷹守はあさってのほうへ顔を背け、私はオーストラリアくらいに俯いた。
次になんと話すか、言葉が浮かばない。別にいいよと言えば、また変な意味になる。
互いに黙ったままでいると、引き戸の開く音が賑やかに響いた。外の気配を感じたので、きっと玄関だろう。
帰ってきた誰かが、私達の居る部屋の前へ差しかかる。
「帰ったぞぅ。瞬、なにやってんだぁ?」
のんびりとした、歳を重ねた男声。行き過ぎてもらえればありがたかったが、ぴたと足が止まる。
家族と見知らぬ女がそっぽを向き合っているのだ、不審に思って普通だけど。
「あっ、じいちゃんお帰り。遅かったね」
「あぁん、明日は大変だからな。準備してた」
なるほど、おじいちゃん。おっとりした声だけで、とても優しいと想像できる。
どこかで聞いた気もしたが、思い当たる知り合いはない。
「あのっ、お邪魔してます!」
「あぁ、どうもどうも」
ともかく無言ではいられず、向き直って頭を下げた。しかしやはり覚えが、と早めに顔を上げる。
おじいさんも頭を掻きながら、会釈で答えてくれていた。
脱ぎかけのウインドブレーカーの下は、白いワイシャツ。ズボンは紺のスラックス。お仕事帰りらしい。
どことなく孫と通じる丸顔に、ふさふさの髪の毛は白いのが八割。
ううん? やっぱり見覚えがある。
「じいちゃんに頼みたいことがあって、待ってたんだよ」
「おぅ、なんだなんだ。瞬の彼女か? 紹介してくれるんなら、なんでもやってやるぞぅ」
「ちっ、違うよ!」
どうしてこう年配の人というのは、男女二人を恋人に仕立てたがるのか。
赤味の抜けない頬を手で隠しつつ、一歩下がった。家族の話があるなら、邪魔をしないよう。できればよそへ行きたかったが、行く当てがない。
「なんだ、つまらんなぁ。じいちゃんから頼んでやろうか? このお嬢さんは優しくて礼儀正しいからなぁ、お勧めだぞ」
「そんなのいいから! って、なんで知ってるの」
私はまだひと言しか声を発していない。お年寄りの冗談だろう。
でなければ怖い。
「そりゃあ瞬。今どきの若い子は、自分勝手をやるのも多いだろう? でもお嬢さんは、運賃箱が壊れないか心配してくれた」
「へえ、そんなことがあったんだ?」
おじいさんに答えつつ、鷹守は私にも問う。
運賃箱と言われても、なんのことやら。すぐには記憶に辿り着けない。
「運賃箱って、バス?」
「うん、じいちゃんは運転手なんだよ」
「あー……ああ!」
ようやく繋がった。今日、こちらへ来る時に乗ったバスの運転手さん。帽子と上着がなくて、印象が違った。
「ええと、あの。雪、大変ですね」
思い出しても、口に出す言葉を迷った。
バスが止まったのはこの人のせいではない。けれどもわざわざ話題にすれば、厭味のようで。
結局、雪と言っては同じかもしれないが。
「いやいや。今日は儂ら、電話番みたいなもんで。明日は朝から雪かきですわ」
「それは本当に大変そうです」
「まあまあ、それが仕事ですんでね」
これほどの大雪を、バスが動けるまで雪かきをする。やったこともないが、絶対に私では務まらない。
おじいさんは嫌がる空気を微塵もさせず、へへっと笑う。
「でもお嬢さんこそ、帰りは?」
笑顔がくるっと、案じる表情へ。どう答えるべきか、私の顔も曇ったはずだ。
察したように、「ああ……」とおじいさん。ただその次を言ったのは、孫のほうだった。
「それだよじいちゃん」
「んん、どれだ?」
「だから、頼み。高橋さんを家に送ってあげられないかな。僕の高校から、歩いて二十分とかだけど」
無茶なことを。
送ってもらえるなら願ってもないことだけど。危険を顧みず、なんていうのは困る。
「た、鷹守。私はいいよ」
断れば帰れない。帰れないなら、これからどうするかの選択肢もない。壁の時計を見れば、午後七時半に近かった。
強いて挙げるなら、おたふくのおばさんにもう一度頼むくらいか。恥ずかしげもなく、泊めてくださいと。
そこのところは彼も理解しているはずで、「でも」と反対する顔は怒ったように見える。
ゆっくりだけどはっきり、首も水平に動く。
「峠の下までか」
「うん、無理かな」
鷹守は私の満足する結果を与えてくれようとしている。それは嬉しい。本当に、とても。
だけど
「ねえ鷹守、私——」
そう言いかけたのと、おじいさんが答えるのは同時だった。
声を聞いて、慌てて黙る。人の話を遮ってはいけない。それが普通だから。
「瞬。そんなのはな、じいちゃんなら楽勝だ」
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