第三幕:雪解けを夢見て

第33話:母と母

 あの日。幼い私が川へ落ち、三倉の兄ちゃんに救われた日。

 兄ちゃんは私を送り届けてくれた。きれいな満月が、高い位置から照らす夜道を。


 神社から祖父母の家まで、今の私なら十五分というところ。その間、互いの声以外は聞こえなかった。

 夜だからそれで普通、と言えばそうなのだろうけど。


 にのまえ。母の旧姓が墨書された表札を前に、「じゃあな」と兄ちゃんは繋いだ手を放す。

 でも私の手が追いかけ、もう一度繋いだ。


「どうした?」


 隣の家と、道路とも、境のない家。敷地へ一歩、踏み入れば玄関の引き戸に触れられる。木板が剥き出しの平屋に、灯りは見えなかった。

 しかし土地柄、鍵のかかかってないのは知っていた。だから家へ入ることに障害はない。


 問われても、どう答えていいか分からなかった。横並びに二人して、祖父母の家を眺めたままでは特に。


「帰りたくないのか」


 続く問いも応答に困る。首を振ろうとしたが、縦でも横でも違う気がした。

 もし、帰りたいのかと問われていたら、遠慮がちに横へ動かしたはずだけど。


「うーん、俺は神様とかじゃないからな。お前が言ってくれないと分かんないぞ」


 もちろんだ。内緒にするつもりなどなかったけど、兄ちゃんと別れた後に起こることを説明するのは難しかった。

 だから、しゅんと首を垂れ、握る手の力が弱まった。


 すると兄ちゃんのほうから、完全に手を振り払われた。

 けど、すぐに私の目の前へしゃがみ、正面から目を合わせて言う。


「分かった分かった。困ったことがあったら、また俺のとこへ来い。なんでもとはいかないけど、大抵は答えてやる」


 だから足踏みしていないで、もう帰れ。もしかするとそれだけの意味だったのか。

 今となっては分からない。しかし額面通り真に受けた私は、それから数えきれないほどに兄ちゃんの下へ通い始めた。


 まあそれは後日のこととして、その時の私は家へ入ることにした。説明もできないのに、引き留めたままでは悪いと思ったのを覚えている。


「お前の名前は?」

「な、なお——なお、なおこ」

「分かった、ナオ」


 にかと笑い、今度こそ兄ちゃんは去った。夜道を引き返す背中が、十歩も行かないうちに消えた。


 一人になって、玄関の戸を開けた。兄ちゃんと約束もしたし、小学校へ入る前の子供だったし。

 布団が一組敷けるくらいのたたきから、奥へ伸びる廊下を覗いた。外から見たまま、灯りはない。


 足音を殺し、母の居るはずの部屋へ向かった。

 そうっと襖を開ける。真っ暗でも目が慣れて、布団へ横になった母が見えた。

 朝には叱られるに違いないが、今は大丈夫そうだ。まずはほっとして部屋に入ろうとすると、廊下の奥のガラス障子が開く。


 そこは台所で、さらに向こうへは祖父母の部屋がある。顔を見せたのは、やはり祖母だ。

 にこりともせず、手招きで呼ぶ。覚悟していた私は、おとなしく台所へ行った。


 古い家だ、床板の隙間から冷気が吹く。祖母はそこに座れと、指をさす。

 膝を折って正座をすれば、向かって祖母も板間に座る。


「直子、なにしてたの」

「川に落ちました」

「濡れてないじゃない」

「寒くて、神社に隠れてました」


 最初から問い詰める口調ではあったけど、声を荒らげることはなかった。

 この日以外の祖母をほぼ覚えてないが、怒るというのは印象にない。


「あんたはまだ小さいから、分からないかもしれないけど。それは恥ずかしいことなの」

「はい」

「いつも言ってるでしょう。物静かでいるのを普通にしていれば、なにがあっても動じないでいられる。ジタバタ慌てる人は、どんな時も醜く慌てるの」

「はい」


 それからあれこれ言われたものの、つまるところはこれだけだった。唯一違ったのは、母について。


さきにも躾けたはずなのにね。あんたに伝わってないのは、おばあちゃんがお母さんにきちんと伝えなかったからだね」


 咲は母の名前。天を仰ぎ、悔しそうな祖母。

 明日、母もお説教されるのだなと悲しくなった。私のせいで、同じように板間へ正座で。

 イトコや伯父さん夫婦も見ている中を。

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