第32話:救いの手

 這いずり、進む。

 こういう姿をイモムシに例えるけれど、今の私はイモムシよりのろまな気がした。


「兄ちゃん」


 三倉の兄ちゃんは、視線を本に落としている。また忠臣蔵だろうか。

 おかげで呼ぶ声に気づかない。変わらず静かに、雪の重なる音だけが響く中。


「助けて。兄ちゃん!」


 カラカラの喉を震わせ、渾身の叫び。

 の、つもりだった。でもほとんど、先の声量と変わらない。かすれた分、さらに聞こえなかったかも。


 限界まで伸ばした手が、さすがに届くはずもなく。はさっと雪のうぶ毛を舞わす。

 ちょうど家屋の途切れる際、御倉神社の参道へ入ったところ。目印の石柱が見えた。


 金色がキラキラと踊る。夏の花火みたいに。光の中、兄ちゃんの首がこちらを向く。

 前触れもなく。けれどもまっすぐ、私を見つめた。


 私には兄ちゃんが居る。

 その視線だけで、胸がいっぱいになった。温かな気持ちで満ち、さっと上げた手を振る力が湧いた。


「に——」


 しかし、兄ちゃんは動こうとしない。目を逸らし、同じ方向を指さす。


 なにがあるの?

 疑う選択肢はなかった。どういう意味だろうと、なにか教えてくれるのに間違いない。


 それは私の、およそ真後ろ。振り向いた瞬間、ごうっと風が巻いた。

 たった今までの無風が嘘のように、暗い宙を雪が荒ぶ。


「高橋さん!」

「鷹守……?」


 小柄な体躯で風を受け止め、毛布を持つ男の子が居た。

 歯を食いしばり、必死の形相。強く短い、切れ切れの息。


「大丈夫だね? 行こう」

「行くって、どこへ」


 呑み込んだ大きな息をまるごと使い、ようやく言葉を吐き出していた。

 彼の広げた毛布に守られ、私は普通に話ができる。それにまた答えるため、男の子は大きく口を開けた。


「僕の家」

「でも、兄ちゃんが」


 きゅっと彼の口が結ぶ。渋い表情が、困ったなと読めた。

 おかしなことはない。私は三倉の兄ちゃんに会いに来て、もうそこへ居るのだ。

 鷹守が起こしてくれれば、辿り着ける。そう思うのに、彼は首を横へ振った。


「ダメなの?」


 そんなことも手伝ってもらえないのか。きゅうっと、私の喉が細く鳴いた。

 するとまた、鷹守は首を振る。ただし今度は、御倉神社のほうを向いて。


 兄ちゃんがどうした。元通り、前を向く。しかしそこに、ツンツン頭は見えない。

 鳥居も、金色の光も。ただただ白と黒が目まぐるしく、色の配置を変え続けるだけ。


 ふうっ、と。景色が遠退く。




 ——まばたきをした、つもりだった。

 妙に重いまぶたを開けた次、見えたものに言葉を失う。

 はっきり木目の浮かぶ平面と、丸い蛍光灯。自分が横たわり、どこかの部屋の天井を見ていると気づくのに数秒かかった。


「高橋さん、どう?」


 視界の外から、鷹守の声。

 気怠い首と目玉を動かし、ふわふわの布団越しに見る。

 だるだるのセーターに着替えて、彼は布団の脇へ正座した。


「ええと……」

「僕の家だよ。一応お客さん用の布団なんだけど、干してなくてごめんね」


 言われてみると、木の。たぶん押入れの木材の匂いが微かに。


「全然」

「目が覚めたらすぐ言えって言われてるんだ。母さんを呼んでくるね」

「あっ」


 鷹守は笑っていた。でもどことなく、いつになく、固い。捲し立て、ささっと立ち上がるのが逃げ出す風に見えた。

 でも言葉になっていない私の呼び止めに、また座ってくれる。


「母さんには、蛇口が外れたって言ってあるよ。びしょびしょだったから」

「ありがと。ごめんね、重かったでしょ」

「ううん。高橋さん、自分の足で歩いてくれたし」


 苦笑いは、ちょっと普通に戻った。


「覚えてない」

「仕方ないよ。意識はあったんだろうけど、うんうん唸り続けてたから」

「ごめん」

「いいよ。高橋さんなら」


 私なら、なんて。自分勝手をしたのに、許してくれるんだ。

 布団のおかげ以上に胸が熱くなる。手足の先へも、今さら血が通ったようにじわっと痺れた。


「私、兄ちゃんに頼もうと思って」

「うん……」

「鷹守が色々考えてくれたのに無視して、迎えにまで来させて。最悪だね、私」

「そんなことないってば。気にしないで」


 熱さが喉元へ上がり、鼻の奥を突いた。ぽろっ、と。熱湯にも感じる雫が落ちる。

 彼は腰を浮かせ、手を伸ばす。けれども向ける先を迷い、右往左往させた。


「ほら、あんたのほうが優しい」


 私も布団から手を出し、鷹守の手をつかむ。空振りしたけど、二度目で。

 すると生気を抜かれたみたいに、彼は膝を折り畳んだ。顔を赤くして俯き、ぶんぶんとかぶりを振る。


「ねえ。兄ちゃん、居たよね」


 また言い合いをしても仕方がないので、話を変えようと思った。遠目にでも見えたなら、あれがそうだと言える。


 それだけの意図だったのに、どうも鷹守は答えに詰まった。

 私の手を強く、弱く。何度も握り直しながら、ひたすら考え込んでいる。


「どうかしたの?」

「……僕には」

「見えなかった?」


 見逃したのを責めたりしない。無理に笑って見せると、頬の筋肉が痛んだ。空いた反対の手で、こっそり揉みほぐす。


「なんとも言えない」


 変わらず私の手を握って、神妙に目を細める。鷹守がなにに困っているか分からなくて、私も困った。


「どういう意味? いいから、考えてること言ってよ」

「おかしいんだ」

「なにが?」


 私の頭は、ぼんやりと鈍い。十周遅れくらいが、じわじわ追いつこうという感じ。

 だから彼としては、察してほしい場面だったのかもしれない。それにまったく応じられなかった。


「高橋さんは参道の入り口に居た。覚えてる?」

「うん、それはなんとか」

「あそこから、見えるわけないんだよ。ススキの原っぱを抜けた、その先にあるんだ。鳥居も、お稲荷さんも」


 空気の凍る感覚は、鷹守の気持ちが伝わったのかもと思う。

 彼の言う意味を噛み砕くのに、私は少しの時間を使った。


「……え?」

「ごめん、そのことは僕もよく考えておくよ。母さんを呼んでくるね」


 そっと、私の手を。鷹守は両手で布団の中へ戻す。

 それで笑って、なかったことと言われた気がして。彼の出ていった障子戸を呆然と見つめた。

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