第31話:変なこと

 閉じられた出口の扉に手をかける。銀色でアルミのようだけど、誰か氷に作り替えたのか。そう思うくらい冷たかった。

 離しかけた手を力尽くで止め、押し開けようとした。けど、開かない。


 もう一度、「ふっ」と息を吐いて思いきり。ばりばりと派手な音を立て、でも半分くらい動いて止まる。今日やって来た時には、鷹守が軽々と開けていたのに。

 扉が凍るなんて。驚いたが、開くには開いた。カニ歩きをすれば普通に通れる。


 一歩、表に出て竦んだ。

 正門が見えない。門から体育館まで、グラウンドの端をまっすぐだったはず。それが見えない。


 いつの間に夜に?

 ついさっき、四時前と話した。いくらなんでも、あれから三十分くらいしか経っていないだろう。体育館の灯りの外は、薄墨に浸したようだ。


 暗い空から落ちてくる雪もすごかった。

 きっと誰か、雲の上で小麦粉をぶちまけた。そんな粉雪がとめどなく降り続く。雨で煙るのは知っていたけど、雪でも同じようになるとは思わなかった。


 門の見えない理由はもう一つ。

 グラウンドに、白い瘤がたくさんできている。私の背よりも高い、もはや山とも言っていい。

 知らないうちに。それも体育館へ居た、たった何時間かで変貌した光景。中から妖怪でも飛び出てきそうで、足が動かない。


「――あっ、車か」


 まだ雪に覆われきっていない、誰かの車が見えた。正体の知れた途端、恐怖心がゼロになる。むしろ恥ずかしくて、気持ちを置き去りにする勢いで歩き始めた。


 もっ。もっ。

 ハイカットなんて、なんの抵抗にもならない深い雪。なのに踏みつけても、ほとんど音がしない。

 タイツを履いて来れば良かった。膝下まで雪がスカートの中を侵食する。でもそれは、立ち止まる理由にならなかった。


 兄ちゃんのところへ行くんだ。


 胸に思うと、もう他に余計なことは浮かんでこない。

 寒さも、暗さも、ほんの数メートル先しか見えないことも。大丈夫だと心の底から信じられる。


 というか小学校の敷地を出ると、実際に明かりは問題なくなった。一軒ごと、家の間にほぼ必ず街灯が照る。

 寿命も目前の蛍光灯みたいな明るさだったけど、家の窓から落ちる光もあった。歩くのには十分すぎるほど。

 風もない。あとは前へ進むだけだ。


「どれくらいかかったっけ」


 御倉神社から小学校まで、たしか十分ちょっと。トートバッグからスマホを取り出してみた。

 時刻は午後四時三十二分。二倍かかったとしても、五時前には兄ちゃんに会える。すぐじゃないかと、お腹の底が砂粒一つ分くらい軽くなった。


 足を持ち上げると転びそうなので、摺り足みたいに滑らせて行くことにした。さらさらの雪も軽くて、脚を動かすのにさほど力む感覚がない。

 長いスカートのおかげか、冷たいけど我慢という域にさえ至らなかった。


「兄ちゃん、兄ちゃん」


 会いに行くのは、助けてもらうため。三倉の兄ちゃんがどうやって助けてくれるか、想像もつかないけど。


 なんだかんだ、これまで数えきれないほどの相談をしてきた。

 大切な石をなくした。父が骨折した。買おうと思う服や靴に迷い、どれがいいかなんてことも。

 兄ちゃんに言えば、必ず納得できた。


 やがて御倉神社へ続く、集落の真ん中の道に出た。半身だけと言え、雪中を泳ぎ続けて息が切れた。

 立ち止まり、呼吸を整えながらスマホを見る。


「もう五時過ぎ?」


 驚いて、行く先へ視線を投げた。なるべく遠くを見たかったが、二十メートルくらいで限界だ。

 しかしそれでも、道が合っていると分かる。黙々と進むうち、行き過ぎたりはしていない。


 来た道を、振り返ってみる。もうすっかりと黒くなった彼方を、降る雪が白くぼやかす。

 建ち並ぶ家と家の間。道路の平面を、腰高まで嵩増す白い床。


 彫られた一本の溝は、私の切り開いた道だ。

 私が身動きしなければ。私が息穏やかにすれば。他に音はない。


 しん。しん。

 耳鳴りか幻聴のように、唄いながら雪は積もる。少しずつ、少しずつ、私の痕跡を埋めていく。


「なんで……?」


 耳を澄ます。

 やはり音がない。私が体重を動かせば、ぎゅっと雪の締まったのは聞こえるのに。


 灯りをこぼす窓、玄関。辺りの家という家から、なぜ音が聞こえないのだろう。

 晩御飯を作ったり、テレビを見たり。そんな賑やかな時間のはず。


「くぅっ……!」


 走った。五十メートルで十秒近い足だけど、必死に。

 纏わる雪。蹴立てたはずが目の前に舞う雪。僅か十歩で体力を尽かされた。


「もう!」


 腹が立って、殴りつける。おかげで氷のシャワーを体験できた。


「なんで邪魔——するの」


 普通に歩いていたより、のろくなった。でも格好だけは走る形で、振る両手には雪を掻かせた。


 ぜえ、はあ。ひゅう。

 切れ切れの息の合間に、ぜんそくめいた雑音が混じる。


「他はいいの。だから兄ちゃんに会うくらいさせてよ」


 独りで、誰に言ってるんだろ。

 そう思うのはきっと、自分への嘘だ。浮かべた言葉とは別に、母や沢木口さんの幻がちらつく。


 さく。さく。脚を動かせば、軽やかそうに雪が割ける。

 だけど実際には重かった。濡れたスカートが張り付き、何人もの手で引き止められるみたいだ。


「あはは……」


 ここはどこ? ぐずぐずと鼻を啜り、笑う。

 何度も歩いた通りだけど、なにもかも覚えてはいない。印象に残る家や物が見えなかった。

 立ち止まり、また振り返る。


 が、先ほど止まった角はもう見えない。

 どれくらい来たか。あとどれくらいか。当てがなくて、寒くて、寂しくて、怖い。


「あはは、無理だったかなぁ」


 左右に並ぶ家には、灯りが見える。チャイムを鳴らして助けを求めれば、さすがに嫌とは言わないと思う。


「でも」


 普通はこんなのしないよね。

 大雪の中、近所の子でもない私が行き倒れかけている。

 きっとこれは、変なこと・・・・だ。普通から外れた、してはいけないこと。


「……ごめんね」


 謝罪の言葉が勝手に落ちる。

 誰に向けてか、自分でも分からなかった。しかしおそらく、続けて浮かんだ気持ちに違いない。


 なんで追いかけてくれないのって、勝手だよね。


「あはは……あとどれくらい行けるかな」


 いよいよ全身で泳ぐ心地がした。喉を塞ごうとする雪を噛み砕き、渇きを癒やすつもりが余計に渇く。


「兄ちゃん」


 もう――。

 足が言うことを聞かなくなった。同じ役目をさせた腕は、音を上げるのが早い。


 転がったら進めるかな。

 バカな思いつきと分かっていた。諦めて、倒れることの言いわけに過ぎない。


「あ、気持ちいいかも」


 良かった。どさっと身体を預けても、雪が柔らかく受け止めてくれる。

 すぐに体温を奪うのを除けば、最高の布団と評価してもいい。


「兄ちゃん、あとどれくらいだった?」


 もう一度会いたかったな。思いながら、最後に御倉神社へ顔を向ける。


 と。

 眩しくて目を細めた。誰かが私の眼に、ライトを押し当てていると思ったくらい。

 突然の光は金色に輝いていた。ちくちくする目を慣らし、なにがあるか見定めた。


 白い。雪の中にも際立つ、はっきりと白く塗られた鳥居が見える。

 手前には左右一対、大岩にお稲荷さんが座っていた。赤い前掛け、白い体躯の。


「にい、ちゃん」


 焼きすぎたクッキー色は、雪の中でもツンツンしていた。岩にもたれ、私が行くのを待っている。

 あと少し。私の全力で十秒くらいの先だ。

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