第30話:救いはどこに

 プロ野球チームのロゴが入った、ぺらぺらの赤いジャンパー。残る片袖を通すのに失敗しながら、入ってきた扉を振り返る鷹守。落ち着きなく、私の顔とに視線を往復させる。


「バス? 出ないって、乗れないの?」


 他に意味の捉えようはなかった。けれども問わずにいられなくて、足も震える。


「うん」

「そんな」


 神妙に、彼は頷いた。どうして、と駆け寄りたかった。事実、椅子から腰を上げた。

 しかし膝の力が抜け、へなへなと床に座り込む。

 またさっきのどろどろが、お腹の底に湧く。鉄を溶かしたみたいに重く、焦げつきそうな痛みが息を詰まらせた。


「だっ、大丈夫?」


 鷹守はあと一歩の距離を駆け、私の背を支えてくれた。

 大丈夫ではない、けど頷く。


「どうしよう。帰れないと、私——」


 どこへ行ってたの。友達も居ないのに。家で普通にしてなさい。

 まばたきをするたび、母の姿がちらつく。吊り上げた目で、私がおかしいと指摘する。


「困るよね。今ね、送ってくれるように頼んでるから」


 母の向こう、無理に笑った彼。幻はぼやけて見えなくなった。


「そ、そっか。おばさんが言ってくれたもんね」


 動悸が激しい。胸を突き破りそうに、心臓が跳ね回っていた。

 手で押さえつけ、宥める。意識して、ふうぅぅと長く息を吐く。少しずつ、気持ちが落ち着いていった。


「雪なんて毎年降るのに」

「そうだね、こっちでも十センチとかかな。バスが止まるのは僕も初めてだよ」


 東京や大阪などでは雪の積もること自体が珍しいと聞くけど、私達が住む辺りでは普通に積もる。

 とは言え道路にまで積もるのは、ひと冬に三回もあれば多い。それも早朝に二センチくらいで、日が昇ればすぐ融けた。


 鷹守の言うように、バスが動かないなんて初耳だ。そんな事態は遠い北国のできごとと思っていた。


「……まだかな」

「うん、ごめんね。もうちょっと待ってね」


 彼が戻って、まだ数分。二、三人と話すのでやっと、というだけしか経っていない。


 分かってる。分かってるけど、早く答えが欲しい。お礼はいくらでもするから、誰が連れて帰ってくれるか教えてほしい。


 そう考えるのが自分勝手とも分かっている。だけど帰れないのは、本当にまずい。


「ううん、さすがにだよね。私こそごめん」


 本音を呑み込む。普通はこう、と出した言葉がひどく震えて、自分で驚いた。


「高橋さん顔色が……」

「へ、平気。寒いからかな。す、ストーブのとこ行きたい」


 鏡を見なくても、真っ青だろうと想像がつく。

 手や指だけでなく、腋の下まで。首すじだけでなく、背中からかかとまで、全身が氷漬けにされたようだ。


 なんでもない、どうってことない。いくら自分に言い聞かせても、より大きな声が覆い隠す。

 まずいまずいまずいまずい。


「ええと、そうだね。暖かいほうがいいよね」


 言って、鷹守は私の腕を取った。「な、なに?」と言うより早く、そっと強い力で私を立たせる。

 肩を貸してくれて、怪我人みたい。でもそうしなければ、たぶん歩けなかった。


「うぅ……」


 舞台袖から、体育館のおよそ中央へ。水銀灯の真白な光が、目玉を蒸発させそうに思えた。

 細くした視界へ、ストーブに群がった大人たちが映る。手に手に、おでんと、ビールと、お菓子と、タバコと、好きな物を持って笑っている。


 みんな楽しそうだ。私だけが、家に帰らなきゃなんて子どもみたいなことで悩んでる。

 それはみんな、この近くへ住んでいるから。私だけが、図々しく遊びに来たから。自業自得とは、まさにこのこと。


「やっぱり仲良しね」


 座布団を踏む。正面からの熱気と、温められたほかほかの生地。

 凍えの和らいだ次の瞬間、つららを思わす冷たい声。見れば目立つ茶髪を揺らし、おでん片手の沢木口さんが隣に座っている。


「具合いが悪くなったんだよ」


 抑揚をなくした鷹守の声が、胸を苦しくさせた。

 いいんだよ、あんたそういうの嫌いなんでしょ。そう思うだけで、目も合わせずに首を振るだけでは伝わらない。


「大変、大変。居るよね、遠足とかでみんな楽しんでるのに、テンション下げるヒト。おとなしく休ませてあげて」


 彼女の隣にあの男性は居なかった。そのせいかペットボトルのカルピスを、ぐぐぐっと一気飲み。


「沢木口さ——」


 鷹守の声に怒気が篭もった。慌てて袖をつかみ、沢木口さんから顔を背けさす。

 見合った顔を横に動かすと、彼はひと息の間を置いて頷いた。


「ああ、居た居た」


 それから十分も経たなかっただろう。集って座った高校生の三人だけが、誰も無言でストーブを見つめる。

 幸いに気づかれることもなかったおかしな空気を、のしのし来たおたふくのおばさんが踏み潰した。


「直子ちゃん、おばさんとこ泊まる?」


 まったく想定にない言葉が聞こえて、自分の耳を疑った。それとも日本語でない、別の言語だったかと。


「…………え?」

「バスが運休になっちゃったのは聞いた? それでね、車を出せる人を探したの」

「あっ、はい」


 良かった、普通に日本語だ。期待に沿った話で、首を突き出して先を待つ。


「でも無理みたい。除雪車でも出してからでないと通れないって」

「えっ。その、じゃあ除雪車はいつ?」

「ごめんね、この辺りに除雪車なんてないの」


 ええと、ええと。

 一つずつ対応策が消されて、次を考える。けど、思いつかない。


「私はどうすれば」

「天気予報だと、明日のお昼には晴れるみたい。そうしたら融けて通れるから、今晩はおばさんの家に泊まったらどうかなって」


 ああ。

 優しい人だ。

 普通、ここまで言ってはくれない。

 でも無理。

 私は帰らなきゃいけないんだ。


「あの、ええと」

「高校生だし。親御さんには、おばさんから連絡してあげるし」

「あ、ありがとうございます。でも、どうにか帰る方法は……」


 お母さん、今日は何時に帰るんだっけ。

 パートならもう帰ってる。そうでなくても七時ころ。

 それまでに。

 それまでに。


「うーん、難しいと思うけど。もうちょっと相談してみるね」


 おばさんは頬に手を当て、いかにも困った風で立ち去った。

 ごめんなさい、迷惑をかけて。改めて、謝罪とお礼はしますから。


「なにその我がまま。無理だって言ってんのに」


 沢木口さんが小馬鹿に笑う。

 我がままなのは分かってる。だけど私も無理だから、言わないで。


「お母さんに——が、心配するから」


 子供っぽいかもしれないけど、親に心配させないのは普通のこと。

 そうだよね、と助けを求めて鷹守を見る。


「沢木口さん。高橋さんは具合いが悪くて、きちんと考えられないんだよ」

「あ、そ。あたしが気分悪いのは配慮してもらえないわけ?」


 鷹守は頷いてくれなかった。むしろ否定するようなことを言って、沢木口さんの苦情も黙殺した。


「あー、ほんとムカつくわ」


 ほんの数秒。沈黙のあと、沢木口さんも立ち去った。行く先を見ると、あの男性が他のおじさんたちと立ち話をしている。

 イトコと一緒なら、そもそも今日は泊まる予定なんだろう。それなら彼女も、私の同類じゃない。


「タクシー……」

「も、無理だね。バスのほうが雪には強いよ」


 咄嗟の思いつきが鷹守に叩き潰された。

 自家用車が無理と言うのだから、タクシーが可能な理屈はないと納得する。


 あんたも我がままと思ってるの? だからそんなに淡々と答えられるの?

 無理なものは無理。私にも分かっているが、一つくらい手が残されてないか、諦めきれない。


「兄ちゃん……」

「えっ」


 こんな時。困った時は三倉の兄ちゃん。

 遠いからと、選択肢から外していた。だけどよく考えれば、ここは御倉神社のすぐ近くだ。


「兄ちゃんに頼んでみよう」

「前に言ってた、神社の?」


 話しかけたつもりはなかったけど、鷹守が問う。

 もちろんこれくらい、普通に「うん」と答えた。


「こんな雪の中で会えるの?」

「私が会いに行ったら、絶対に居るんだよ」

「絶対に——? ええと、スマホとか」


 スマホ。

 一瞬、それなに? と分からなくなった。しかしすぐ、電話とかアプリとかで連絡することと思いつく。

 ただ、無理だ。


「持ってるのかな。知らない」

「じゃあ危ないよ。直接行くなんて」


 正面の出口を向き、彼は声を渋らせた。外までは見えないけど、鳴る風の音が聞こえる。ほんの少し。


「大丈夫。兄ちゃんは待っててくれるから」

「待ってたって、辿り着けなきゃ危ないんだよ」


 兄ちゃんなら助けてくれる。雪の積もったお稲荷さんにもたれて、私をきっと待っている。

 鷹守も親切で言ってくれてるのは分かるが、そうですねとは言えないのだ。


「普通の高校生はさ、親が言った時間には家に帰らなきゃいけないでしょ」

「そうだけど」


 私が立とうとするのを察したらしく、押し留めようと彼の両手が伸びた。


「兄ちゃんは必ず私を助けてくれるんだよ。だから大丈夫」

「ほんとに? 大学生なんだよね、どうしていつでも待ってられるの? 連絡方法もないのに、おかしいよ」


 あんたもか。


 私の胸に浮かんだのは、そのひと言。他になにも考えたくなくて、走り出した。

 捕まえようとした鷹守の手を、ぱちんと撥ねて逃げ出した。

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