第28話:うらはら

 思わずの呟きが聞こえていようといまいと、彼女がこちらに気づかないのはあり得なかった。


「あー、ごめん。通らせて」


 私より少し背の高そうな男性が、ステージに上がりたいと言った。私達は階段を塞いで座っている。

 もちろんすぐに、道を空けた。


 よく名を聞くスポーツブランドのウインドブレーカー。長い手足で着こなす男性は、二十歳を過ぎて見えた。

 沢木口さんに片腕を抱えられ、引き摺るように歩く。仲睦まじいという言葉がよく似合う。


「あれ、どした?」


 階段を上がろうとして、男性は振り返る。沢木口さんが急に手を放したから。

 彼女は私と鷹守とを交互に睨み、また慌てて答える。


「うん学校の——と、友達!」

「えっ。ここから通うのか、すごいな。まあそれなら、挨拶だけしてくるわ」


 ステージ上でも作業は行われている。それを男性は指さし、沢木口さんの返事を待たずに行った。


 男性に向けた弾けるような笑顔。姿が見えなくなって、こちらに向いた顔。

 彼女はまるで別人だ。ばっちり描かれた目が見開かれ、およそ二十センチ下から怒気を突き上げる。


 厚底のショートブーツも、木の床をゴッゴッと責め立てた。

 ピッタリとしたパンツ、さっきの男性が着ればいいくらい大きなもこもこブルゾン。

 全身真っ黒なファッションが大人びていて、いつにも増した強い態度で。沢木口さんへ向く私の視線は、そっと伏せられた。


 なにも考えられない。時間が早く過ぎればとか、そんなことも思いつかず、ただただ床の木目を見つめる。

 きっと十数秒だったのだろうけど、私には十分ほどにも感じられた。


「——あれ、沢木口さんもこっちだっけ。知らなかったよ」


 いつもの、普通の鷹守が沈黙を破った。

 さっきまで、私と話していたよりほんの少し。声が低まって平坦に聞こえる。


「はあ? お前らこそ」

「僕の家はすぐそこだよ。高橋さんはね、準備を手伝ってくれてるんだ」

「へえ、今日はないんだ? お買い物」


 上目遣いに、腕組みの沢木口さんがちょっと見えた。窺うまでもなく、私への言葉に間違いないけど。


「う、うん。いつも木曜日だから」

「そんなこと聞いてない」

「そうだよね、ごめん……」


 クラスのクリスマス会には来ず、ここには居るのか。口に出さない彼女の声が、はっきりと聞こえた。

 ぐるぐるとお腹の底が掻き回される。どろどろ、ギトギトしたなにかが、泡を弾けさせながら煮立っている。


「うっ」


 込み上げた吐き気を飲み込む。察せられたら、どう思われるか。咳払いでごまかしもした。


「あっ、そうか聞いたことあるよ。今の男の人が沢木口さんの彼氏? 社会人なんだっけ、かっこいい人だねえ」


 どうして今、そんなことを。憎らしいくらい普通に笑って、鷹守は問う。

 しかしまた、どうしてか。「そっ」と沢木口さんの声が詰まる。なにか驚いたみたいで、つい私も顔を上げた。


「そう——って、そんなの関係ないでしょ。あたしは高橋さんに聞いてんの。なんでここに居るのか」


 彼女の首は、縦に動いた。肯定したのだと思ったけど、打ち消すみたいに横へ振り直した。解いた髪をぎゅんぎゅん鳴らして。


「あの。私」

「ああ分かった、お前らそういうこと」

「えっ?」


 一転、沢木口さんは微笑む。うふふと芝居がかった声で。


「ぴったりくっついてたじゃない。こぉんな暗いところで。今もだけど」

「えっ? あっ」


 改めて言われても、なにを言いたいのだかすぐには分からなかった。

 だけど鷹守を見れば、腕と腕が触れ合っている。それを暗いところでと言うのだから、おそらく理解できた。

 階段で、鷹守とくっついていた。縫い方を教えてあげるのに、私の腕は彼の背を抱えるようにしていた。


「ごめんね気づかなくて。大丈夫、もう知っちゃったから。みんなに言って、公認にしてあげる。クラスで見守ってあげないと・・・・・・・・・ね」


 すうっと、背すじが寒くなった。雪とは別の、風邪でもひいたような気持ち悪さ。

 晒し者にすると言うのだ。物分かりの悪い私でも、それは知れた。


「やっ、違う。私、鷹守とそんなんじゃ」

「はいはい、照れない。あたしにはどうでもいいことだし」


 クラスで見守る。どうでもいい。妙なところで、沢木口さんの語気が強くなる。

 ニヤニヤと嘲る笑みが、既に萎れた私の気持ちをなお枯れさせた。


「なに、からかうとでも思ってんの? そんなことするわけないでしょ。ねえ、鷹守はよく知ってるよね」


 彼女の言うことは反対だ。楽しそうな声とうらはらな、睨めつける眼と同じ。

 ただ、鷹守に同意を求めたのはなんだろう。


「僕? さあ、僕がなにか知ってるの?」

「はああ?」


 きょとん、という顔を教科書に載せるならまさに。彼はなんのことやらと問い返した。


 そんな反応はあり得なかったらしい。沢木口さんは高く声を上げ、すぐにステージへ目を向けた。

 ああ、なるほど。幸いに男性はまだ見えない。


「ああ、そう。もっと分かりやすいのがいいってことね」

「分かりやすい? なにを? 沢木口さんがなにかしてくれるの?」

「うるさい!」


 頭半分、私より背の低い沢木口さんが、さらに半分低い鷹守を見下す。でもこの場でいちばんに余裕があるのは、どうやら彼だ。


 なにをか、絶対に分かっているはず。だというのに、それを表には出さない。

 なんでそんなに強くいられるの。

 おののきまくっている私には、不思議で堪らなかった。


「ていうか高橋さん、それおしゃれしてるつもり? なんだか知らないけど、力仕事とかするんでしょ。場違いって知ってる?」


 ふんふんと鼻息が聞こえる。もちろんそのせいではないけど、見下ろす私のスカートが揺れた。


 場違い。その場所、状況に相応しくないこと。国語が得意でない私も、それくらいは知っている。

 木枠を組み、高いところへ布や紙を貼り、重い物も運ぶ。

 たしかに。気づいていなかった。


「あ、えと……私……」

「普通さ、こういう時にする格好ってあるでしょ」


 普通じゃない。これは劣っているほう。

 頭の中が真っ白になる。雪で凍えたみたいに、脳みその働く感覚がない。


「沢木口さん!」

「な、なに」


 突然、鷹守の怒鳴り声。

 大きな声、でなく。沢木口さんも笑みを潜めるような怖い顔。


「思い出したよ、ごめんね」

「だからなに」

「さっきの男の人、彼氏じゃないね。たぶんイトコとかかな。青年団の人だからよく知ってるのに、なんで思い出せなかったのかなあ」


 どこかに台本があるのか。だとしたら棒読みでと、ト書きが加えられている。

 感情を抑えた彼の声に。若しくは違うなにかに、沢木口さんはすぐの返事ができない。


「……関係ないでしょ」


 じっと黙り、おそらくたくさんの言葉の中から、ようやく彼女は言った。


「そうだね関係ない。だから僕は、これ以上なにも言わないよ」


 いつもと違う、さっきよりさらに声を低めた鷹守。

 私には分からない尻切れの会話で、沢木口さんはステージに去った。「ふんっ」と、不本意を声に残して。

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