第26話:任されること
しばらくすると、一人、また一人。宴から作業へと移り始めた。だというのになぜか、おでんの具はまた追加されていたけれど。
ともあれ私もお手伝いに来た身。おたふくのおばさんに、ステージ脇の暗がりへ連れられた。
「これ、任せても大丈夫?」
目の慣れない中、おばさんはなにかを積み重ねた塔を指さす。
私の背丈でようやく頂上の見えるそれは、小さな車輪付きの衣装ケースだった。
任せると言われても、なにをするのやら。悩む私に、おばさんはケースを下ろして中を見せてくれる。
「そこのテーブルでアイロンかけて、ほつれてたら縫うの」
引き出されたのは、黒い布。おばさんが「よいしょっ」と腕の長さ分も出したのに、まだまだケースへ残っている。
暗幕とかだろうか。まあ正体はさておき、テーブルを見た。
パチッと音を立て、おばさんが蛍光灯のスイッチを入れた。分厚いニスが、凹んだ木目をくっきりと浮かばせる天板。
事務机くらいの——いやたぶん、昔はこれが事務机だったのだろう。天板の下に、重そうな引き出しが左右二つぶら下がる。
「アイロンはこれね」
その引き出しから、ほとんど金属の塊という感じの物体が出てきた。色褪せた紅白のコードが付き、温度調節は強と弱だけっていう。
教科書で見るような、炭を入れる奴じゃなくて良かった。
「アイロンと裁縫ですね。それほど得意じゃないけど、できます。普通くらいには」
「そう! 良かったぁ。あたしたちがやればいいんだけどね、針仕事は目がつらくて」
舞台に吊る物だから、それほど几帳面にしなくていい。なんてことを付け加え、おばさんは暗がりから出ていく。
「ほんとに助かるわぁ」
と、最後にまた振り返って言われるのがくすぐったい。
あはは、どうも。とかなんとか、ごにょごにょと返事をごまかした。おばさんはもう、明るいほうへ行ってしまったけど。
電源を入れた途端、爆発しないか。割りと本気でおののきながら、アイロンのコードをコンセントに挿す。
それが伝わったか、アイロン君はチッチッと小さな舌打ちで温まっていく。
「瞬坊、ペンキ取ってきて!」
「はいっ!」
壁の向こう。天井からライトに照らされる空間は賑やかだ。
つるつる頭のおじさん、おたふくのおばさん。だけでなく、色んな声が大きく響く。
それを持ってきてくれ。そっちの端を持ってくれ。向こうから角度を見てくれ。
当たり前なのかもしれないけど、どれも誰かに頼みごとをする。
「瞬坊、
「探してきます!」
木枠のぶつかる音、紙のこすれる音。誰か走って、転んだ。ビールの缶を開け、こぼすんじゃないと叱られるのまで。
賑やかで、みんな楽しんでいるのがよく分かる。
私は一人、一本の蛍光灯の下。黙々とアイロンを動かす。ほつれたのを見つけたら、近くにあったガムテープを貼って除けておく。
まずは一通り、アイロンを済ませよう。
「なんだ、松がなくなっちゃってるよ。おい瞬坊! あれ、どこ行った?」
「さっき、パンを買いに」
「そんなの他の奴に行かせろよ。瞬坊じゃないと描けないんだから」
御倉劇団の人たちは、鷹守を瞬坊と呼ぶ。
一時間かそこらの間に、呼ぶ声を何度聞いたことか。そのたび、彼は跳ねるような返事で答える。
散歩に行こうと言われた犬。しかも小型犬のイメージが、頭に浮かんで仕方がない。
「子チワワはすごいね」
しばらく誰も来なかったので、ぼそっと独り言。
本当にすごいと思ったのだ。彼はこの劇団に、居なくてはならない。きっと誰一人、違うと言わないはず。
「コチワワ?」
「えっ」
でも油断だった。すぐ後ろに、おたふくのおばさんが居た。
左手に湯気の上がる紙コップ。右手にお菓子の載ったお盆。こぼさないよう、ゆっくりと来たらしい。
「いえ、その」
「これ、摘んでね。寒くない? 適当に休んでストーブに当たってね」
たじろぐ私に、おばさんは意味ありげな視線で笑う。しかし言葉にはせず、インスタントコーヒーとお盆をテーブルに置く。
「あっ、ありがとうございます」
「まあこれ、もうこんなに終わったの?」
「いえ、まだアイロンだけです。繕うところはガムテープで印を」
布の一枚ずつは、掃き出し窓のカーテン一組と同じくらい。そういえば数えてなかったけど、十五枚は終えたと思う。
「それでもすごいわ。あたしの若いころなんて、アイロンが爆発したらどうすんだって触らなかったもの」
「あははっ。私も怖いです」
「偉いわ、直子ちゃん」
謙遜に決まっている。だけど一度は、そう思ったこともあるに違いない。
なんだかおばさんに親近感を得て、面白いからでなく笑った。
「あら、瞬坊」
ふと、おばさんが出入り口に目を向けた。倣って見ると、言う通りに鷹守がこっちへ来る。
どうしたことか、暗がりに遠目でもずぶ濡れの頭で。
「どっ、どうしたの頭。うわ、腕も」
「雪が強くなってきてて。高橋さん、バス大丈夫かな」
「そんなに? でもバスが止まるなんてあるの?」
子チワワと言えど、さすがに身体を揺さぶったりしなかった。ちゃんと持参したタオルで、ごしごしとやる。
「さあ、僕は聞いたことないけど」
「ここ十年、十五年くらいは、そんな大雪になったことないねえ。もしもの時でも、誰かに送ってもらうよ」
心配してくれる鷹守でさえ、バスは止まらないと言う。心強いおばさんの声もあって、このまま作業を続けることにした。
なにしろまだ、半分も終わっていない。
「普通は全部終わらせるよね、お手伝いに来てるんだもん」
「いや、普通はって」
「大丈夫だよ。さすがに今日は、送ってもらえるのに断らない」
前回とは事情が違う。はっきりそう言うと、彼も「分かった」と頷いた。
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