第25話:初めての風景
午前十一時まで、あと数分。歩くうち、自分の影が見えなくなった。
顔を上げると分厚い雲が垂れ下がり、太陽がどこにあるか分からないくらいだ。
「降ってきそうだね、雪」
行く先から声をかけたのは鷹守。小学校の正門を背に、高々と手を挙げた。
「天気予報、見てなかったなあ。降るって言ってた?」
「どうかな。そういうの僕も見るほうじゃなくて」
話しつつ、彼は半歩先を歩く。クリスマス公演は集会所でなく、この小学校の体育館で催される。
敷地をざっと見回すと、バスからの印象と変わらない。グラウンドのトラック、校舎の下足室へ向かう道すじ、そういう所以外は雑草が伸びかけている。
冬休みだから当たり前だけど、誰の姿もない。特に関わりもない私なのに、胸の奥へ乾風が吹く。
「おぉ……」
物悲しい気持ちを抱え、奥まった体育館に入った。鷹守の開けてくれた両開きの扉を抜けると、思わぬ光景に声が漏れる。
私の通った小学校と比べると、ふた回りくらい小さな体育館。でも正面にステージがあって、左右の壁にバスケットゴールが。
意外だったのは焦げ茶色の木の床——で宴会をする人たち。
ええとここは小学校で、まだ午前中で、私は公演の準備のために来たんだよね?
そう自問した。
「あっ来たね! おいでおいで」
七、八人の車座に大きなストーブ。載せられた鍋を覗く、つるつる頭のおじさんが手招きした。
いや違う、手に持ったビールの缶を振ってみせた。
「今日、寒いから。まずは腹ごしらえ」
「あっ、えっ、どうも。いいんですか?」
「いいのいいの、じゃんじゃん食べて」
おじさんは私の手に紙皿を押しつけた。だけでなく、おでんの具をどんどん放り込む。
すじ肉、厚揚げ、大根、こんにゃく。食べきれるか怪しい量に「も、もう! はい!」と慌てて止めた。
「あっ、そうだ。その、回数券をいただきました。私なんかに、ありがとうございます」
ゆで卵を入れようとするおじさんから皿を遠ざけ、頭を下げた。
するとグビグビっと、缶を傾けたおじさんは愉しげに笑う。
「わははっ、ご丁寧にどうも。こうして来てくれたんだし、お礼なんか」
「いえ、そういうわけには」
この雰囲気ではうやむやになる。タイミングは今しかない、と持ってきたトートバッグから紙箱を出した。
「大勢いらっしゃるので、こんなお礼しかできなくて」
「いいのに」
おじさんの笑みが苦笑に変わる。だけどこちらこそ、遠慮されるような物じゃない。おでんの皿は床に置き、箱の蓋を開けて見せた。
「ええ? こりゃすごいね」
中身は、これでもかと詰め込んだクッキー。家に転がっていたピーナッツやココアパウダーをぶち込んで、数だけはたくさん。
とは言え人数も、まだ増えるはず。一人に三枚もないかもしれない。
「おーい、おばさん。そっちの受け持ちだよ」
「えっ、なになに」
おじさんはまた、ビールの缶で人を呼んだ。
来たのは、おたふくみたいに優しく笑うおばさん。箱を渡すと大げさに
「いいの? 作ったんでしょ、お店で買ったみたいねえ!」
なんて喜んで見せる。さらに伸びた手がクッキーを摘み、神速で口へ運んだ。
「あらおいしい! さすが女の子はいいわあ。うち、男の子しか居なくて。その洋服も可愛いわ、おしゃれしてきてくれたのね。うちの人、そういうのに気づかなくてごめんね」
立て板に水。機関銃の勢いで聞き流しかけたが、どうやらつるつる頭のおじさんと夫婦らしい。
私の袖やスカートをちょっと引っ張る仕草が、歳上に失礼だけど可愛いと思う。
「い、いえ。ほんとに大したことできなくて」
「そんなことないわ。可愛い子なんてね、そこに居るだけでありがたいのよ。神様仏様みたいに」
私なんかを、どうしてこんなにおだてるのか。なにも得などないはずなのに。
どう答えていいか、「あはは……」と笑ってごまかす。
「お前も神様だろ」
「えっ、そう?」
「うん、布袋さん」
「ハゲ頭はあんたでしょ!」
突如、夫婦漫才が始まった。激しい語気とうらはらに、二人とも楽しそうだ。周りの人たちも慣れっこで、悪口を交えて囃し立てる。
「あははっ」
「見ろ、直子ちゃんに笑われた」
「女の子に笑われるなんて、ないことよ。喜んで拝んどきなさい」
骨組みの丸見えな天井から、降りてくる空気が冷たい。だけどストーブを中心に、温かい風が私を包む。
ごめんなさいと謝りながら、私の笑いは止まらない。おでんの皿を拾った鷹守が、「あっちで食べよう」と座布団に案内してくれた。
「いつもこんな感じなんだよ、クリスマスはね。準備しながら、忘年会も兼ねてみたいな」
「楽しそうだけど、お酒飲んじゃって大丈夫なの?」
「うーん、毎年どうにかなってるから」
あくまでも今は、早めのお昼だと。食べ終わればみんな、きちんと作業をすると言った鷹守も疑わしげな目。
でもたしかに、お酒を飲んでない人も居る。私より後に来て、こちらを見向きもせずに作業を始める人も。
「降ってきたみたいね」
「ほんとだね」
また一人、作業に加わった男性の頭へ雪が載っていた。当人も気づいていないようだったけど。
ホワイトクリスマス。
忘年会。
ストーブとおでんを囲んで過ごす冬のひと時。
目に見える物を挙げていくと、賑やかなこの場所がとても貴重に思う。
隣で笑う鷹守に感謝しなければ。冬休みの初日を退屈でなくしてくれて。
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