第24話:手紙と押し葉

 クリスマスイブの朝。母の朝食だけは見届け、先に家を出た。週末で三便に減ったバスに乗り、三十分足らずを揺られる。


 やがて見える、錆びた防球ネット。真っ白な砂の浮く、小さなグラウンド。

 人の気配を感じない小学校を窓越しに眺め、着いたバス停で席を立った。


「これ、入れても大丈夫ですか?」


 回数券と十円玉とで合わせた運賃を、手のひらに出して見せる。お金でない物を運賃箱へ入れても壊れないか、心配になった。


「ん、あぁー、どうぞどうぞ。いつもありがとうね」


 白髪が八割のおじいちゃん運転手さんが、いかつい顔を柔らかく崩して頷いた。

 鷹守に聞いてはいたものの、本当に使えるのかの懸念もなくなった。ほっと息を吐いて放り込む。


 考えてみると整理券も一緒に入れるのだった。意味のないことを聞いた、と一人で勝手に頬を熱くした。


「さてと……」


 誰にもなにも咎められていないのに、咳払いで自分を落ち着かす。鏡がないけど、自分の服装もチェック。

 黒いジャンパースカートと、ラベンダーのふわふわニット。パステルのハイカットと合っていない気がする。地味なコートは論外。


 鷹守と約束した時間の前に、三倉の兄ちゃんと会うのだ。おかしな格好をしていたくない。でも前と同じだな、なんて思われるのも嫌だ。

 靴もコートも早く新しいのが欲しい。


 しかしいくら悩んでも、着てきたものはもう変えられない。

 おかしくない。おかしくない。

 可愛くないのは知っているけど、せめて普通に見えますように。

 神社へ着く前に、誰に願っているんだろう。


「兄ちゃん!」


 焼きすぎたクッキー色の髪。長袖の真っ赤なシャツ。いつも似たような服だけど、似合っている。

 お稲荷さんの座る大岩へもたれ、兄ちゃんは本を開いていた。私の声にぱたんと閉じ、顔をこちらへ向けてくれた。


「今日はどうした? いつもより早いな」


 へへっと軽快な笑声を混じらせ、兄ちゃんはじっと私を見た。

 大きく開いた、どんぐりみたいな眼。恥ずかしいのと、最初の言葉が言いにくいのと、私は顔を伏せた。


「うん、ちょっと用があって」

「珍しいな。でも、暇ってよりいい」


 早いとは、前回からたった一週間で来たことだろう。

 頻繁に会えるのが私は嬉しい。上目遣いに探って見ても、兄ちゃんは嬉しそうでも嫌そうでもなかった。


「謝らないといけないこともあって」

「謝る?」

「兄ちゃんが出せって言った手紙。ポストに入れたんだけど、届かなかったの」


 燃えるゴミの日の前夜、集めたゴミを調べてもみた。千切れた小さな紙もよく見たけど、それらしい物は見つからなかった。


「届かなかったんなら仕方ない。なんでナオが謝るんだ?」

「配達してもらったのに私が取り忘れたとか……」

「そうなのか?」

「ううん、ないと思う。たぶん」


 兄ちゃんは叱らない。そうと分かっているから、申しわけなかった。できるものならカメみたいに首を引っ込めたい。


「じゃあ、しょうがないだろ。気にするな」


 ぽん、と。ちょっと強く、でも痛くない加減で頭を撫でられた。一度だけでなく、ぐるぐる何度も。


「でも」

「いいんだって。あれを出す時、誰かに会わなかったか?」

「ええと——あ、会ったよ。ちょうどあの日に話した、鷹守っていうのに」


 パシられる鷹守を、見てみぬふりする私。忘れかけていたが、兄ちゃんに先週相談したのはそういう内容だった。


「話したんだろ?」

「うん。今日もちょっと」

「それならもう、俺のは用なしだ」


 用なしって、解決のためのなにかが書いてあったのか。「どういうこと」と問い直しても、兄ちゃんは笑うばかり。


「気にするなって、大した中身じゃない」

「気になるよ」

「なんで」

「それはだって——」


 兄ちゃんのくれる物なら、砂粒の一つだってなくしたくない。ずっとずっと、私の中の一番なのだから。

 などと口に出せるはずがなく、続く言葉はごまかすことになる。


「その。まだ解決したとは言えないし」

「まだなにかあるのか」

「クラスの女子で沢木口さんって居て。鷹守を使いっぱしりにしてる人だけど、私もなんだかね」


 よく考えると、先週の相談とは関係なかった。しかし困りごとには違いなく、クリスマス会のあれこれを話す。


「嫌がらせされてるのか」

「えっ、なにもないよ」


 兄ちゃんの眼が鋭く、ぎらっと光る。

 野良猫にちょっかいをかけすぎて、急に牙を剥かれた感じ。思わずたじろぎ、私の全身がびくっと縮こまった。


「ないならいい」

「う、うん、ない。そもそも私の断り方が良くなかったんだよ」


 説教してやるから、ここへ連れてこい。たとえばそんなことでも言い出しそうで、慌てて答えた。

 するとすぐ。にかっと気持ちのいい、いつもの兄ちゃんの笑顔が戻る。


「ナオはちゃんとしてる。俺は知ってるからな」

「ありがと」


 また撫でられた。

 兄ちゃんが怒るのなんて、ほとんど見たことがない。そのたじろいだ気持ちが、ひと撫でごとに融けていく。

 終いには全身、ふにゃふにゃのとろとろだ。


「用事はいいのか?」

「あっ、行かなきゃ」


 ふにゃあ、と今度は私が猫になりかけていた。

 いつもなら本殿まで手を繋いで、お菓子を貰って食べる。それができないことに後ろ髪を引かれるが、約束を破るわけにもいかない。

 きっとそんな私は、兄ちゃんも嫌うはず。


 大きな手を自分で外し、どさくさに紛れて撫で回し、「また来るね」と放した。

 兄ちゃんも嫌がらず、「またな」とその手を振ってくれる。


「そういえば、なんの本?」


 去り際、もう一方の手にある物が気になった。いつも私を待っている兄ちゃんだけど、本を読む姿は初めてだ。


「ベタな奴だよ。忠臣蔵」

「ベタなんだ?」

「年の瀬と言えば、だな。読んでみるか?」


 向けてくれた表紙に、その通りのタイトルが読める。聞いたことがある程度で、内容を知らないが。


「分厚いね——」

「あははっ、ナオは文章が苦手だよな」


 答えを予想していたのだろう。兄ちゃんはさっと栞を取り、中身の細かい字を見せつけた。

 吸血鬼に十字架でもなし、まあそれでも「やーめーてー」と苦しむ真似はして見せる。


「栞、葉っぱなんだね」

「ああ、その辺に生えてる。朴の若葉だな」


 きっと押し葉だ。兄ちゃんの指と同じくらいの、それでも青々と形を保つ葉が目に入った。


「可愛い」

「可愛いか?」

「兄ちゃんらしい」

「俺は可愛くない」


 男の人に可愛いとは、褒め言葉にならない。父が言っていたから知っている。

 だけどそう感じたのだ。

 怒ったふりの、拳を振り上げるふりをする兄ちゃんから「またね」と逃げ出した。

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