第20話:お見舞い

「女の子が高校生にもなって、お腹壊して休むとかね」


 学校へ欠席を連絡してくれた母が噴き出した。

 経緯はどうあれ、たしかに恥ずかしくはある。「だよね」と私も苦笑いで、買い置きの薬を飲んだ。


「滅多に休まないのが、あんたの貧しい才能なのにね。まあたまには、おとなしく寝てろってことよ」

「うん、そうする」


 前に欠席したのは、やはり牡蠣が原因だった。その前もだ。

 およそ一年ごと、定例行事みたいになっているのは、母の意識にないらしい。


 私が自分の部屋へ戻ると、もう様子を見に来ることもなかった。しばらく経つと出かける気配がして、家の中が静まり返る。


「あ痛たたた……」


 二、三十分に一度、大きな波が襲う。それまでは暗雲漂い、ゴロゴロと雷音がしながらも凪なのだけど。

 トイレに駆け込み、波を越えればまた凪に戻る。


 経験上、夕方くらいまで耐えれば治る痛みだ。明日の終業式には出られそうで、ほっとした。


 波にもまれる只中ではそれどころでないのだけど、お昼頃には一時間ごとくらいまで落ち着いてきた。

 するとカラカラに乾いた喉へ、お茶のひと口くらいは与えようと考えられる。


 その前にダイニングテーブルが、朝食の皿やマーガリンの散らかったままだ。

 さすがに食パンをトースターへ放り込むまでしかできなかったので、母が自分で出したのだろう。


 私が外出せず、誰かに問われても体調を崩したと大っぴらに言える。

 おそらく母は、ご機嫌麗しく出かけた。それは私にとっても、機嫌が悪いよりはいい。


 つい調子に乗って片付け、煮出して冷やしたウーロン茶をコップ一杯飲み干す。

 およそ一分後、私はまたビッグウェーブに直面した。


「ふう……」


 蹴散らしたスリッパを足先で拾い、自分の部屋へ。

 家の北側に位置するダイニングは、灯りはまあいいかと妥協する程度に暗い。それに冷え冷えとして、長居する理由はなかった。


 言って私の部屋も似たようなものだ。フローリングにタンスが三本、整理棚が一つ。折り畳みのテーブルを立てかけ、空いた隙間に薄いマットレスを広げている。

 安っぽいカーテンを開け、今日も薄曇りの北の空を眺めつつ、布団へ潜り込んだ。


「あーー」


 これという音が聞こえない。まさか私が脂汗を垂らす間に、人類は滅んだのか。

 などと妄想を膨らませ、とはいえ自分の声をたしかめる。

 良かった、音という概念は消えていない。


 どこかへ急ぐ車。世間話の声。そういう日常が私だけを置いていったみたいで、あり得ないと分かってもどこか不安な気がしてしまう。


 みんな学校やお仕事へ出かけている時間。布団でぬくぬくとする自分が犯罪者めいて落ち着かない。


 しゃらん、と。オンスタの気取った通知音が響く。いつもは聞き逃すこともある淡い音色が、今はやけに大きく聞こえた。

 早まった胸の鼓動に深い息を供給し、スマホを取る。


 鷹守?

 時刻はお昼休み。彼は謎の絵の続きをやっている頃。


『邪魔したらごめんなさい。風邪と聞いたけど、調子はどうですか?』


 お見舞いの言葉なんて初めて貰った。その相手が彼というのは昨日の今日で、画面を見るのがつらい。


 でもそれだけに、きちんと返事をしなければと思う。

 大丈夫、元気。と言えばズル休みみたいだ。しかし、つらくてつらくてと言うのも違う。


 どう答えるのが普通で妥当か、頃合いが難しい。正直にトイレの回数を伝えるのは、もちろん候補にも上らない。


『なんで敬語?』


 困って、どうでもいいツッコミに逃げた。これくらいを言う程度には元気、と伝わることを期待して。


『良かった、返事はできるんだね。寝てるのを起こしたら申しわけないと思ったんだけど。終業式には出られそう?』


 敬語の件はスルーされた。気遣ってくれる彼には、咎めようとも思いつかないが。


『明日は行けるよ、ありがとう。変わったこととかあった?』

『本当に良かった。高橋さんが居ないと寂しいから。変わったことは特にないかな』


 寂しい?

 私が居ないと?

 ああ、また部室に一人で居るからだ。危うく勘違いするところだった。


『今日は邪魔されなくて良かった、の間違いでしょ?』


 笑っているマークを付けて送る。誰も傷つけない自虐ネタが冗談として手ごろだ。


「あれ?」


 かなり素早く届いていたメッセージが止まった。繰り返しに画面を更新してみても変わらない。


 ——本当に邪魔したかな?

 こう何度も応答を重ねるつもりはなかったのかも。絵の続きをしたいのなら、どうぞどうぞという気持ちでいる。


 少し待っていても、やはり次のメッセージは来ない。

 そのうち訪れた波と、トイレで格闘した。たぶん五分くらい。布団に戻ると、新しい通知が見える。


『本当だよ』


 これだけを送るのに、十分ほども悩むはずがない。邪魔になっている説が濃厚だ。

 それなら返事の必要がない、簡潔な答えを。苦笑しながら打った。


『ありがとう』

『たまたまだけど、渡したい物もあるんだ。明日、高橋さんが来るのを待ってるね』


 今度は驚くくらいに素早い返事。

 渡したい物。待ってる。気遣ってくれるのもここまでくると、ちょっと引く。

 いや間違いなくありがたいのだけど、優しくしすぎだと。


『ありがとう。もうちょっと寝て、明日頑張って行きます』


 病人が寝ると言えば、会話は終わるはず。

 この作戦は見事に当たり、鷹守の答えは『おやすみなさい』だけだった。

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