第18話:下描き
——冬休みまで、まだ三日も。
もう水曜日で、残すは木曜と金曜だけ。しかも最終日はお昼までというのに、行く先が無限の彼方に思える。
机に腰掛け、鼻からため息を噴く。
「なにか心配ごと?」
演劇部の部室の真ん中で蹲る鷹守が、わざわざ手を止めて問う。
笑って、気安げに。
あんたにはなさそうでいいね。と、思い浮かんだ言葉に自分で驚いた。
彼はなにも知らないのだから、これで普通なのに。慌てた答えを、変に思われなかっただろうか。
「な、なにもないってば。お弁当食べ過ぎちゃったかな」
今日も後田さんとお昼を過ごせなかった。朝「おはよ」と言ったら、「ええと、おはよ」と。辺りを見回しながらの返事を貰った。
それきりだ。
昨日、オンスタのメッセージで『沢木口さんが怒ってて、しばらく話したりできないかも』と事情を聞いた。
『うっかりっていうか、地雷になると思わなくて。高橋さんが来れないのは、買い物に行かなきゃいけないって言っちゃった』
『買い物なんかでってこと?』
『ポイントがどうとか、行きたくないって普通に言えばいいのに。言いわけが良い子で鬱陶しい。だって』
私が断る理由として、家の用事とだけ伝えていた。あまり細かに言っても、沢木口さんにはどうでもいいだろうと思ったからだ。
もしかして冠婚葬祭とか、大掛かりなことを想像したのかもしれない。だとしたら沢木口さんにとって、私は嘘吐きになる。
『詳しく話したら、分かってもらえるかな』
『難しいかも。放っとこうって言ってたから。いつものメンバーと、私にも』
みんなで無視しましょう、というらしい。
だから沢木口さんグループの居ない、登校してすぐには後田さんと話せる。しかし誰の口からどんな風に伝わるか分からず、挨拶だけにすると私から言った。
それからお昼休みに食堂へ一人で居ると、鷹守が声をかけてきた。
なにができるでもない食堂より、人目のないだけましだろうとこの部室へ避難することにした。
「楽しそうだね」
作業を進める鷹守は、ずっと真剣な顔つきをしている。時にふっと笑うのは、うまくできたとかだろう。
こんな風に傍から見ても分かるほど、熱中できるものが私にはない。
「楽しいよ。よく分かるね?」
「そりゃあ、いつもと違うし」
「違うかなあ。高橋さん、前もそんなこと言ってたね」
言ったっけ。
思い出せなかった。たぶん今と同じに、思ったままを言ったのだろう。
どこがどうとは言えないけど、教室で御用聞きをしているのとは別人だ。
「あっ、ごめん。邪魔した?」
刷毛と言ったほうがいいような大きな筆を、彼は置いた。ひどくかすれて、絵心ゼロの私にも途中と分かるところで。
「ううん。ちょっと疲れたし、きりのいいところでね」
疲れたのは本当だろう。右手を開いて閉じて、ストレッチみたいにしている。
きりの良さは分からない。七、八人も寝転べそうな大きな模造紙に、そもそもなにを描いているのか。
最初は鉛筆で下書きがあったけど、全面が真っ黒に塗り潰された。いくらか濃淡があるので、下書きも無意味ではなかったのだろうけど。
今日はグレーの絵の具を塗りたくっている。
黒くしたのはなんだったの? また聞きたくなる調子で、ざあっと。
「なに描いてるの」
なにがなんだかな黒とグレーを眺めつつ、鷹守は道具を片付け始めた。私が邪魔したのだとしても、いいから続けてと言うのはむしろ悪い。
とは方便だ。私のことを問われないための。
「分からない?」
「分かる人居るの?」
「――知らないと分からないかも」
「なにそれ」
クスッと、からかうつもりはあるはず。でもまったく厭味に感じない。小さな子が覚えたてのなぞなぞを出すように「なーんだ?」と言えばきっと似合う。
「冬休み中には完成するはずだから、それまでに当ててみてよ」
「賞品でも出るの?」
当ててみろと言うから、見返りはあるのかと。ああ言えばこう、みたいなつもりで言った。
だけど彼は驚く様子も考える素振りもなく、すぐに頷く。
「いいよ。考えとく」
「じゃあ完成の前の日くらいに答えるね」
「ええ? それはずるいよ」
あくまで冗談だ。伝わったはずだけど、さすがの苦情が笑いながら。
釣られて私も笑った、声を上げて。
「あははっ」
「良かった、笑えて」
「え、どういうこと?」
「ううん、別に。高橋さんが笑ってるのはいいことってだけだよ」
一つ言う度、絵の具を一つ。それくらいゆっくりとした撤収作業を、手伝うとは言いにくい。急かす格好にしかならないから。
その代わり、言葉が途切れそうなら次の話題を提供しなければ。なんとなく、そう思った。
「……舞台の仕事って、たくさんあるの?」
「舞台の?」
「あんたがやってるみたいな、背景とか大道具とか。他になにがあるか分かんないけど」
作業を眺めながらだと、なかなか他のことが考えつかない。鷹守は劇団でも、物を作ったり片付けたり、誰かの手伝いばかりしている。
「どうかなあ、東京へ行けばあるんだろうけど」
「じゃあ東京に行くんだ?」
「えっ、行かないよ? いや行くかもしれないけど、予定はないよ」
これは目を丸くして、彼は答えた。私も意味が分からず、首をひねる。
「行かないの? 東京じゃないと仕事がないんでしょ」
「仕事って——ああ、僕が? 言わなかったっけ、僕は別にお芝居なんて好きじゃないんだよ」
ようやく話が通じたらしい。私はますます分からなくて、またも「どういうこと?」と問うしかなかったけれど。
「僕は劇団の人たちがやりたいことを手伝ってるだけだよ。みんなが楽しいと僕が嬉しい。それだけで、仕事にしようなんて全然」
「そんな。だってあんた部活とか、こんなに時間使って」
お昼休みに鷹守が教室へ居ることはない。それは毎度、演劇部のなにかしらをやっていたから。
中学校でも御倉劇団のために部活を決めたと言っていた。
「それが全部、楽しいとか嬉しいのためって言うの?」
「そうだよ」
裏付けるように、彼は満面の笑みで頷く。
あり得ない。自分以外の人のために、それほど膨大な労力を傾けられるなんて普通じゃない。
「だってお給料があるわけじゃないでしょ。すごいと思うよ、劇団のおじさんたちは助かるなんてもんじゃないと思うよ。でも普通はさ——」
私の言い分が、見返りというひと言で纏められることにはたと気づく。
口を噤み、鷹守から目を逸らした。
視界の端、じっと待つ笑みがまだ眩しい。少しの沈黙。やがて「そうだねえ」と、彼はのんびり話し出す。
「僕自身にもやりたいことはあるよ、得意なことも。だからやりたくないこと、苦手なことならここまでやらない。というかできない」
「絵が得意なの?」
この部屋に立てかけられた、過去の絵。全てでないにしても、どれかは鷹守の物だろう。
遠足で行った、美術館で見たようなのとは違って粗い。だけどどんな場面か、想像を掻き立てられる絵だ。
「得意じゃないね、でもなにか作るのは好きなんだ。だからまだ決めてないけど、将来もそんな仕事をするんじゃないかな。イラストレーターか、建築士か、市役所か」
「全然違うし」
冗談でお茶を濁すつもりか。そう思ったのに彼は「そうでもないよ」と、嘘を感じさせない声で笑む。
「よく分かんないけど、ちゃんと考えてるんだね」
「ちゃんとじゃないよ。卒業までにはっきりしてたらいいなって、今はなんでも試してるってだけ」
卒業までにじゃ間に合わない。もうそんな軽口は言えなかった。
中学生どころか小学生と言っても通じそうに小柄な男の子が、見上げるほどの巨人に思えて。
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