第17話:なにも分からない
悪寒が走る。あの小さな雪のせいとは思えない速度で、背すじの体温が砕け散った。
「兄ちゃん——」
三倉の兄ちゃんを呼んだことに、自分の声で気づく。
困った時の兄ちゃん頼み。これほどに今すぐ、と思うのは珍しいけれど。だからと都合良く、学校へ現れるはずもない。
「なんだあの一年」
「デカいのがボケっとしやがって」
私のことだろう、たぶん。通り過ぎた誰かが、ヒソヒソと大きな声で言った。
その人たちを見ないよう、そっと見回す。食堂は随分と人が減った。もう出ていく人ばかりで、入ってくるのは自販機でジュースを買うくらい。
そうだよね。普通、御飯を食べたらすぐに出ていくよね。誰かとお喋りするでもなく、突っ立ってるなんておかしいよね。
——動いた。足が。
どこへ向けてか、誰かが見えない糸で引くみたいに。勝手に。
ただし上履きのままでは、行けるところも限られている。さすが私の足は、アスファルトや土の上を行く無法をしなかった。
一階の一年生の教室も避け、階段を上る。
二階は二階で、二年生が休憩時間を謳歌していた。つまり賑やかだ。
三階まで行くと、途端に人の気配が失せる。踊り場に跳ね返る喧騒も、異次元から聞こえるような遠い感覚がした。
「は……」
なんだか疲れた。千五百メートル走でもしたのだったか。
階段の最上に座り込み、手すりにもたれる。細い鉄の支柱が氷のようで、煮えた額にちょうどいい。
どうすれば良かった?
お誘いがあって、オンスタで断って。今日また誘われて、用があるから無理だと言って。
私はなにを間違ったんだろう。後田さんにどんな迷惑をかけただろう。
考えても分からない。すると間違えていないのか。
それならなにも問題なく、教室へ戻って後田さんと話せばいい。そうすれば彼女は、ごめんごめんと理由を教えてくれるはずだ。すっぽかすことになった、誰にも責任のない理由を。
どうしよう。悩むほど熱くなる額を支柱で冷まし、ムダに時間を見過ごす。
予鈴も鳴った。
お昼休みはあと五分。
教室へ戻らないと。
「高橋さん?」
誰か、男の子の声。どうしてこんな、みっともなく悩むところへ。
私だけの場所でなく、責める道理はないけれど。
「……ええと。今日も来てくれたの? でももう戻るところなんだよ」
演劇部の部室のほうから、明るい声がやって来る。少しの間の他に、訝しむ空気もなかった。
鷹守は何も知らない。いつも通りで普通だ。
私の普通は、どうだったっけ。
なにか言うべきか、なにをも言わないべきか。迷う時間が膨れていく。
「もしかして、僕が手伝えることとかある?」
もう彼は、すぐ後ろに立つ。
調子の変わらない声で、言ったのは偶然だろうか。それとも、なにかあったと気づかれた。
どちらにしても、振り向かずにいるのはおかしい。さっさっと両手で、強張った頬をほぐす。
「なんでもないよ。ちょっと休憩」
まだ確実なことは分からない。それを今、たまたま会った鷹守に話す理由がない。そういう時、普通はごまかすはず。
半身を捻り、見上げた彼の顔。首を傾げつつ、にこにこと笑っていた。悩みなんてなさそうに。
「そうなの? じゃあ、なにかあったらいつでも言ってよ。僕でできることなら、手伝いたいから」
「うん、なにかあったらね」
うまく、普通に笑えた。だから私に構うことはないはずなのに、鷹守は動かない。
放って先に行ってよ。私はまだ、気持ちの整理がついてないんだから。
心の中で言っても、もちろん届くことはなかった。まして彼は、一緒に戻ろうというつもりらしい。
それならそれで、早く行こうと言ってくれれば。私も仕方がないと覚悟を決められる。
でも言わない。時計を見たり、よそ見をしない。ずっと私を見つめた。
「戻らないの? 教室」
先にしびれを切らしたのは私。視線も外し、階段を下りるよう促す。
「高橋さんは? 行ける?」
「うん。休憩終わり」
気の利かない奴。戻るにしたって、一人で行きたいのに。
察するなんて無理に決まっている。分かっていながら、彼を悪者にした。
学校じゅうから弾けていたざわめきが、どんどん静まっていく。それが早くしろと急かすようで、階段を駆け下りた。
鷹守もなにも言わず、すぐ後ろを追ってくる。ちょうど教室の前、チャイムが鳴った。
五時間目、六時間目が終わっても、後田さんからの声はない。沢木口さんを見ても、特に私を気にする様子は見えなかった。
こちらから聞けば、真実がすぐに分かる。
何度も勇気を振り絞ろうとした。けど、叶わない。せめていつも通り「後田さん、また明日ね」と言おうとした時、彼女は既に教室を出ていた。
家に帰りながら、まだオンスタがあると自分への言いわけに余念がない。
どう聞くか文章くらい考えられるはずなのに、帰ったらメッセージを送るとだけ繰り返す。
「兄ちゃん、どうしたらいい?」
三倉の兄ちゃんからの手紙に、ヒントがあるかも。助けを求め、途中から全力で走った。
けれど、ドアポストは空だ。
なんで届かないの?
くずおれそうな膝を必死に堪える。すると耳に、スマホの通知音。
お手玉しながら取り出すと、後田さんの名前が見えた。
良かった——。
救われる心地でアプリを立ち上げる。しかし彼女からの言葉は、望むものとは違っていた。
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