第二幕:踏み入る冬

第11話:三倉の兄ちゃん

 幼いころ。

 たしか小学校へ上がる前、川に落ちた。子どもばかりで御倉神社の奥へ、探検でもしようとなったのだと思う。

 その場所へ至るまではかなり曖昧なのに、水に落ちた時だけは鮮明に覚えている。


 神社から丘のてっぺんを過ぎた反対側だ。冬休みで薄っすらと雪が積もっていた。

 急な斜面をわざと駆け下りるのを繰り返していた。およそ川に沿ってくねる小道を。


 川と言っても、大人が思いきり跳べば越えられる程度。私はその縁へ、危うく止まった。

 でも次に下りてきた誰かが、どんと私を押した。勢い余ったか、ふざけたのかは分からない。


 水面まで、およそ一メートル。手を伸ばしても遠ざかるばかりの、絶望的なあの距離。

 ずっと途切れることのない、ざあっと飛沫を散らす音が耳の中まで侵す。殴りつけるように冷たい水が押し寄せ、苔で滑る川底を私は流された。


 遠退く。

 私を落とした誰かの呆然とした顔。すぐに気づいた仲間たちがさす指。何人かはすぐに背を向け、走り出した。


 ——次に気づくと、真っ暗な場所に居た。

 とても暖かい毛布に包まれていた気がするのに、寒くて探しても見つからない。

 自分の服に触れると、ほとんど乾いていた。でも微かな湿り気が、隙間風に体温を盗ませる。


「まだ寒いか?」


 男の子の声がした。目を向けても、暗くて見えない。

 知らない声。だけど助けてくれたらしい。


「寒い」


 答えると、音もなく灯りが点いた。たぶん蝋燭だったのだろう。照らされた顔の暖かい、炎だった。

 ほうっと吐いた息で揺れ、慌てて鼻と口を押さえた。


 眩しくて細めた視界に、男の子が居る。焼きすぎたクッキー色のツンツン髪。赤いシャツに白いズボン。

 私より五歳くらい上に見えた。


「ここ、開けっぱなしだからなあ」


 いたずらっぽい。でも優しそうな大きな瞳が、笑うと糸のようになる。

 指さすほうを向くと、細かな格子の嵌まる扉があった。ガラスや障子紙はなく、向こうに夜空と木の枝が見えた。


 な? と笑う男の子に釣られ、私も笑う。すぐに震えて、それどころでなくなったけど。


「抱っこしてやろうか?」


 節の目立つ木の床に、あぐらで座る男の子。両の手と腕をいっぱいに広げ、ここへ来いと示してくれる。


 年相応。いやむしろ小柄なほうだった私には、とても大きな空間と感じた。

 誰かの膝へ座るなんて初めてで、そんなことをしていいんだと驚いた。

 でも、頷く。


 暖かな炎さえ、風に揺れる。あそこへ行けば、守ってもらえる。

 それがとても魅力的で、抗う理由がない。


「暖かいねえ」


 四つん這いで転がりこむ。自分以外の体温が、これほど心地良いとは知らなかった。

 太腿に頬擦りする私は、軽々持ち上げられる。すとん、と股の間へ落とされた。


 長い腕が私を包む。暗くなっても、ちっとも怖いと思わなかった。

 ああ、さっきの毛布はこれだった。そう理解すると、ずっとこのままで居たいと思った。


「兄ちゃん、なんて言うの? 名前」

「ん、俺か」


 祖父母の家へ送ってもらう、ひとけのない静まり返る夜道。問うと兄ちゃんは、なぜか「うーん」と考える素振りをした。


「ええと、さっきのお社と同じだよ。数字の三に、宝物を入れる倉。三倉だ」

「みくらの兄ちゃん」


 あいよ、と機嫌よく答えてくれる兄ちゃんの頭の上。満月が高く昇っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る