第9話:鷹守の用件
バス通りの角。大きな窓の事務所の向こうを、緑と白のストライプが行き過ぎた。
あと少しで間に合わなかった。でも、これくらいなら許されてもいいはず。
きっと普通はそうだと自分に言い聞かせ、乱れた息を整える。寝癖だらけの髪を、ゆったりのベレー帽に押し込みながら。
「おーい」
そこらじゅう、黒々とした靄が残る。飼い主を探す子チワワが一人、私の声にさっと振り向いた。
「高橋さん!」
これから四、五泊で旅に出るのだろうか。彼自身の入れそうなバッグを斜めにかけ、子チワワが走る。
勢いにおののき、立ち止まる私。
その半歩前まで全速力、足下の砂を鳴らして彼は止まった。
一瞬、鷹守の表情に曇りが差した。怪訝な風に私を見て、それからなぜかお礼を言われた。
「——ありがとう。急に来てもらってごめんね」
「いいけど。なに?」
人と人がようやくすれ違える、狭い歩道。自転車でも来れば邪魔になる。
まずは問うと、彼の指は来た道を戻るほうへ向いた。
「あっち!」
楽しそうに宣言して、彼は歩き始めた。着いてこいというらしい。元気良く腕を振り、小学生が秘密基地にでも行くみたいだ。
ちょっと失笑という程度で収まらず、「あははっ」と声を上げて笑った。
鷹守が振り返る。なにを言うかと思えば、ひと言。
「良かった」
と。なぜか満足そうな顔は、やっぱり子チワワ。うまくボールを拾ってこれた時の。
でも本当に、なんだろう。
問いたいのはやまやまだったが、やめておいた。たぶんなにかを「じゃーん」と見せたいのだ。
ここは彼の演出に乗っておくことにした。
——一つ手前のバス停で良かったんじゃない?
という距離を歩いた。昨日、私の家がどの辺りかおじさんたちに聞かれて、答えたバス停まで来たのだろうけど。
それはいいとして、周囲は普通の家ばかり。親戚の家に連れていかれるのかな、と変な緊張が湧く。
「着いたよ」
思った通り、お店でも施設でもない誰かの家の前。
ただ、普通と言っては失礼かも。敷地を囲う石の一つずつが、私より大きなのばかり。
格子の門から覗く和風の庭に、重々しい瓦葺きの日本家屋。
「ここ、どこ?」
「注文してた物をね、受け取りに来たんだよ。演劇のね」
「注文って……」
なにか買い物をしたらしい。どう見てもお店には見えないけど。
鷹守が呼鈴と示されたボタンを押す間に、手がかりを探す。
あった。
和装、小物、個人発注承ります。と、門の脇へ紙が貼られている。名刺サイズで、通りがかりには絶対に気づけない。
「三倉でございます」
三倉?
聞き覚えのある名が、インターホンから聞こえた。品のいい、年配の女声。
鷹守は慣れた様子で、演劇に使う品物が届いているはずと話す。
「お手数ですが、そのままお進みください」
鷹守が門を開けた。磨いたばかりのような黒玉砂利に、ごつごつした飛び石が浮く。
そこらじゅう見回し、表札を見つけた。でも苗字しか書かれていない。
いやなにを期待しているんだ、私。兄ちゃんは御倉神社に家があって、会いたければいつでも鳥居のところに居る。
玄関で、和服の女性が迎え入れてくれた。五十歳くらいか、割烹着でハンバーグを作ってくれるお母さんという感じ。
いかにも応接用という和室に通され、私のベッドより広い一枚板の卓を前に座らされた。
違い棚に、読めない毛筆。真下の床には真っ青な壺。
緊張で、兄ちゃんどころではなくなった。
「承っております。用意して参りますので、お待ちくださいね」
注文の控えに、奥さんは素早く目を通した。先に用意されていたお盆でお茶を淹れてくれて、「ごゆっくり」と部屋を出る。
「……ねえ。高そうだけど大丈夫?」
失礼ながら、つるつる頭のおじさんたちに似合う場所とは思えなかった。
そうだ、ボランティアと聞いた。それならたくさんの予算があるはずもない、と心の中の暴言に言いわけを加える。
「だよね。でも御倉神社の分家筋らしくて」
「へえ、大丈夫なんだ」
やはりこの家も、元を辿ればあの集落に行き着くらしい。
だから安くできる配慮をしてくれるのだろう。
「で、私はなにをするの」
「うん。品物を貰ったらその中から——じゃなくて、付き添ってもらっただけだよ」
ああ、なるほど。ほとんど意図は分かったけど、どう返せばいいのやら。
取りあえずは、なにも気づかぬふりを決め込んだ。
「でもわざわざ日曜日に?」
「曜日は関係ないらしいよ。と言っても本当は明日辺り、他の人が来るはずだったんだけど。高橋さんが来て、なぜか僕が来ることになってさ」
おじさんたち、あるいはおばさんたちのお節介のようだ。私が鷹守の彼女という説を信じているのか、事実のほうを合わせようというのか。
ともあれ可愛がられている彼のおかげで、私はなにかを貰えるらしい。
「私のせい?」
「えっ、そんなことないよ。高橋さんのことがなくても、僕が役に立てるのは嬉しいし」
他の誰が言っても。たとえば私が言っても、見え透いた嘘っぽいセリフ。
だけどこの子チワワが白い歯を見せて言えば、本心なんだなと分かる。
「良かった。無理に押しつけられたんじゃなくて」
私のため、私のせい、であればもちろん。そうではなかったとしても。
楽しそうにしていた集会所で、学校のような嫌な思いをしていたら。
妄想を浮かべ、ほっと息を吐いた。ちょうどよく、熱いお茶が手もとにある。
「無理に? そんなの一度もないよ。もしあっても断るし」
「断るってあんた——」
無理でしょと言いかけたところで、奥さんが戻ってくる。私達より十歳くらい上の女性を、二人連れて。
奥さんとどこか似ていて、きっと娘に違いない。
「お待たせ致しました。ちょっと嵩張るのですけど、大丈夫かしら?」
言う通り二人の娘さんが、それぞれに両手でやっとの風呂敷包みを卓に置いた。
私だけでなく鷹守も。それに入る? と持参のバッグに疑いの視線を送る。
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