第5話:ポストの前
御倉神社からバス停まで、来た道をそっくり戻る。
途中、小路に折れた先。もし全力で走れば十秒くらいの先へ、タバコ屋さんの丸くて赤い看板が見えた。
そこは簡易郵便局を兼ねていて、ポストが備えられていると知っていた。もちろん走る必要はなく、よく知ったような知らないような街を散歩気分。
私の家の辺りではまだ降らない雪が、そこここに僅か融け残っている。
「あれ、高橋さん?」
色が抜け、店名も読めないくらいに破れたテント看板の下。短い箒とちり取りを動かす男の子に声をかけられた。
父や母と一緒ならともかく、どうして私のことを? 誰も知らないはずという思い込みを外せば、タネは簡単だった。
「なんで鷹守が?」
「僕の家、すぐそこなんだよ。高橋さんは——ああ、ポストだね」
私の手に封筒を見て、彼は道を空けてくれた。そもそも邪魔でもなかったけど、普通に「ありがと」とは言って投函する。
「そこ、って。ここが鷹守の家じゃないの」
「うん。今朝ちょうど雪が融けて、葉っぱとか砂が散らかってたから」
「へえ、偉いね」
「偉い?」
ただのご近所の店先を、彼は掃除しているらしい。それは私には誉めるだけの善意と思う。
でも鷹守は不思議そうに首を傾げ、返答に窮した私へ笑いかける。
中学校の名前が入った小豆色のジャージ。ポリエステルの薄いジャンパー。
目新しくもない。というか、巣立った息子の服を着る親みたいな格好と箒がよく似合う。
三倉の兄ちゃんに会うからと、お気に入りを着てきた自分が場違いに思えた。
「あっ、買い物も?」
私の動かない理由を勝手に察して、鷹守は自身の塞いでいた引き戸を開ける。
タバコを買う窓とは別の、チョコレート色の格子戸。嵌められたガラス越しにパンやお菓子が並んで見えた。
「え、うん」
違うと答えては悪い気がして、お店へ入った。すると彼も道具を片付け、後へ続く。
「なに、鷹守も買い物?」
「うんそう。お昼御飯とか、おやつとか」
「そっか」
目の前のパンの棚で、私は止まった。鷹守は向こうへ回り込み、カップラーメンを手に取る。
土曜日のお昼前。どうして彼は、近所の雑貨屋さんでそんな物を見ているんだろう。
「ねえ」
「うん?」
「家、近いんでしょ」
「そうだよ。遊びに来る?」
棚に背板はなく、向こうとこちらが筒抜けだ。パンとラーメン越しに尋ねると、ご丁寧に背伸びで視線を合わせてきた。
学校でもよく見る彼の笑顔に、社交辞令の色はない。
「いやそんな急に行かないけど。って、あれ? あんた、こんなとこから通ってるの」
バスに乗れば二十分ちょっと。しかし通学に使える便はないはず。
突如として浮かんだ重大な疑問に、私の声は少し大きくなりすぎた。タバコのガラスケースに埋もれたおばあちゃんへ振り向くと、気にした様子もなく表を眺めていた。
「自転車で一時間もかからないよ。帰りは倍かかるけど。あははっ」
まったくなんでもないことだ。さもそういう風に彼は笑う。
たしかにまあ、体力作りが趣味という人は居る。体格からは想像が難しいけど、鷹守もその人種なのだろう。
半ば呆れたが、文句をつけることでない。せっかく初めてのお店に入ったのだし、パンの一つくらいは選ぶことにした。
見ていない間に、もちろん鷹守も品物を選んでいた。ちょっと悩んだ私がおばあちゃんのところへ行くと、すぐに彼もやって来た。
「ちょ、ちょっとあんた。それ全部?」
驚いた。両腕で抱きしめるように、すぐには数えられないだけの商品を抱えている。
カップラーメンだけでなく、ご飯やスープなどのレトルト食品があれこれ。
「う、うん。一度に持ちすぎだね」
「持ちすぎっていうかさ」
炊事ができないなら、作ってあげようか。
思わず言いそうになった。でもまともに話す機会もない男の子に、いきなりそう言うだけの親切を私は持たない。
こぼれそうになったのを受け取り、ガラスケースに並べる。おばあちゃんは私のメロンパンと一緒に、手打ちのレジを素晴らしい速度で叩いた。
「どうやって帰るの」
お釣りは要らないと言って百円玉を渡し、運搬方法を問う。
法律とはたぶん関係なく、袋を貰えなかった。おばあちゃんの手もとを見ても、メロンパンが一つか二つでやっとの袋しかない。
「袋、あるから大丈夫」
なにが楽しいのか、満面の笑み。鷹守はポケットから、見覚えのあるレジ袋の束を取り出した。
なるほどと納得しつつ、ぞわっと首すじに嫌な感じがする。三つになった袋の一つを、私は取った。
「手伝う」
「えっ、平気だけど。いいの?」
「あんたに聞きたいこともあるし。ついで」
「へえ、なんだろう」
ますます楽しそうに、彼は店を出て歩き出す。神社やバス停へ行くのとは反対へ。
鷹守の家は、どんななのか。嫌な予感に具体的なイメージは湧いていない。ほとんどスキップと言っていい軽やかな歩みに、のそのそと従う。
「ここだよ」
聞きたいこと、も。予感についても。話すだけの距離がなかった。お店から角を一つ折れ、たぶん百メートル足らず。
砂利敷きにちらほらと雑草の伸びる土地。庭でなく広場と呼ぶのが似合う奥へ、黒く汚れの染みた木造の平屋。
何十年前の建物か、鷹守は手招きで私を
アルミの引き戸の脇へ、建物の正体が墨で書かれていた。どうやらこの集落の集会所だ。
賑やかな談笑の声。なにをしているやら、大量の食料はここに集まった人たちの物らしい。
「あんた、ここでもパシられてるの……」
「ぱし?」
まったくなんでもないことだ。彼の笑顔は、そう見えてならない。
それが今の私に、どうにも腹立たしく思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます