第6話:あたたかな空気

 意外に広い下足スペースへ、たくさんの靴が散らかる。

 スニーカーでなくズックと呼ぶべきの運動靴。晴天と言えこの冬空に、サンダルも多い。


 鷹守の作ってくれた一足分の空白。パステル色のハイカットを私は揃えた。

 簀の子を踏み、軋む板張りの廊下を数歩。真っ黒のゆで卵みたいな頭が先を進む。

 茶ばんだ襖がガタガタとぎこちなく開き、先に入った鷹守が「どうぞ」と招く。


「瞬坊、おかえり!」

「世話かけるねえ!」


 すぐさま。男女入り交じった威勢のいい声が、何人分も浴びせられた。

 二十畳くらいの和室が、二間続けて開け放たれた大きな空間。明らかに労いの意思を持った声は、離れた位置からもまだ飛んでくる。


 鷹守と同じようなジャージや、毛玉だらけのスウェット姿。誰も来ない自宅でだらける格好のおじさんおばさんは、数えると十四人も。


「あれ、どこの子?」

「瞬坊の彼女か」


 若い人でも三十代。上はおそらく六十代。二十八の眼がいっせいに私へ向いた。

 勢いこんで来たものの、それはこの人たちからすると正体不明だろう。


 どこの子と言われても、祖父母はもう亡くなっている。もちろん彼女なんて、真実からの距離が遠すぎる。


「ち、違うよ。高橋さんは——」


 分かりやすく慌てた鷹守が、なにやら捲し立てた。ちょっと私の耳にはきちんとした言葉に聞こえず、おじさんおばさんもどっと笑った。


「あの、これ」


 あなたたちの買い物をしてきたのに。

 腹立たしさを示すのと、用件を説明するのと。二つの目的を、突き出したレジ袋で表す。


「ああ、一緒に行ってくれたの」


 対面の壁際に座っていた、つるつる頭の男性がこちらへ。

 毛髪の状態とは別に、筋骨隆々として血気盛んな四十代という風貌。


 大きな手がレジ袋を受け取ると「お金、足りた?」と問われ、鷹守に振り返った。


「うん。これお釣り」

「お、ありがとさん」


 答えた彼からも買い物を回収し、男性は中身を一つずつ取り出す。


「ほい、カップうどんあるよー」

「あ、ほしい」

「はい次、焼きチーズパンだよー」

「ください」

「はいはいトマトスープ、早いもの勝ちー」


 ここは競売所だったのか。手を挙げた落札者に、品物が投げ渡される。

 いやお金の受け渡しはないし、いつもこんな風に配っているようだけど。


 受け取る側も、カップラーメンを二個とか欲張ったことはしない。なんとなく主菜と副菜みたいなものを抱え、何人かずつ丸く座っていった。


 この広間を出て行く人も。入れ替わりに湯気の立つやかんを持ったおばさんが戻ってきたから、電子レンジでも使いに行ったのかもしれない。


「……ねえ、これなに?」


 てんで勝手なようで、なんだかルールがあるようで。

 少なくとも分かるのは、今日たまたまの集まりでないこと。同じ人たちが何度も顔を合わせていなければ、きっとこうはならない。


 この建物は集会所で、おかしなことはなかった。けど正体の知れないことを今度は私が落ち着かなく思う。

 それなのに鷹守は「これ?」と、なんのことやら分からない顔をする。


「この人たち、なにをしに集まってるの」

「ああ、劇だよ。福祉施設とか、ボランティアでやるんだよ」


 ひそひそ声で聞いたのに、彼は元気よく答えた。

 普通こういう時、内緒話と察してくれるものだろうに。


「鷹守も?」

「僕は出ないけど。お手伝い」

「劇のお手伝い?」

「うん、良かったら見て帰る?」


 劇というものに縁がない。

 中学の時、文化祭で演劇部が公演したのを見たくらいだ。演目はフランス革命がどうこうというものだったはず、と薄っすら。


 それでも役者だけでなく、裏方が必要とは分かる。舞台のセットを移動させたりするのに、鷹守の体格は目立たなくていいのかも。


 でも見ていくって、そんな裏作業を?

 観劇初心者が、どんなマニアックな見方だ。呆れて苦笑していると、やかんを持ったおばさんが回ってきた。


「お湯、要るものある?」

「い、いえ。ありがとうございます」

「あらそう? 飲み物くらい、好きに飲んでね」


 私もメロンパンを持っている。だからか、おばさんは隅にあるお盆を指して言った。

 飲み物と言ってもインスタントコーヒーしかないようだけど、部外者の私に。


「えっ。私、勝手に来たのに」

「いいのよ、瞬くんの友達でしょ」


 話す間に、鷹守がコーヒーの用意をしてきてくれた。真っ白い紙コップを覗くと、茶色と白の粉が混ざる。


「じゃあ、すみません」

「はいどうぞ。ゆっくりしてって」


 おたふくの面みたいな、ふくよかで朗らかなおばさん。私が誰かとか、名前さえ聞かずに次の人たちへお湯を届けに向かう。


「お昼を食べたら、また練習になるから。高橋さんも、それ食べていけば?」


 右手にメロンパン。左手に温かなミルクコーヒー。食べる以外の選択肢はないけれど、だからと戸惑いは消えない。


「ええっと」

「あっ。なにか用があるなら無理にとは言わないけど……」


 彼の笑みが曇った。額に寄った皺が、それこそ無理をして言っていますと主張する。


「ううん、分かった。食べてく」

「えっ、そう? いいの?」


 表情の晴れていく様に、ぱあっと効果音さえも聞こえる気にさせられた。

 ここまで追い詰められたら、普通は諦める。ため息を吐いたものの、それほど嫌な気分でもない。


「ずるいよ。子チワワみたいな顔して」

「コチワワってなに?」

「教えない」


 魚肉ソーセージを丸かじりにする鷹守と並び、思わぬところで昼食を済ませることになった。


 ——それから結局、午後五時くらいまで居残った。

 つるつる頭のおじさんが「お客ありなら、通し稽古にしよう」と言ったせいもある。


 西洋劇を思い浮かべていたのだけど、実際は時代劇だった。チャンバラというか、大衆演劇と言うらしい。

 清水次郎長とか、名前だけは聞いたことがある。


「そろそろ最後のバスだから」


 車で送るからもうちょっと、と。おじさんたちに引き止められた。だけど初対面で、普通はそんな図々しくしない。

 丁重に断って、また遊びに来ると約束させられて、集会所を出た。


 鷹守が着いて部屋を出ようとしたのも、まだ練習が続くようだから押し戻した。

 蛍光灯の白々しく照らす引き戸を開け、薄暗くなった冬空の下へ。ぽかぽかと暖かい空気が、襟もとや袖口から逃げていく。


「高橋さん、待って」


 十数歩。ゆっくりと進んだところで、鷹守が追いかけてくる。

 来なくていいって言ったのに。

 そう考える私の頬が、唇に合わせて上がる。


「暗くなってきたから、やっぱり送るよ」

「大丈夫だよ、私なんか」

「いや、その。僕だけじゃなくて、みんな行けって」

「おじさんたちが?」


 広間の窓を開け、何人かが手を振ってくれる。私も振り返して、そういうことなら仕方がないと納得したことにした。


「学校で見るのと違うし。ふわふわのセーターとか、長いスカートとか」

「まあ違うけど」


 それは休みの日にまで、セーラー服を着てはいない。そう言うなら鷹守自身、学生服でないと。

 これくらいの意地悪は、普通に冗談として通じるだろう。と思ったけれど、発言のタイミングはなくなった。


「可愛いし、危ないよ」

「え。あ、そう」


 五時二十八分のバスに乗るまで、彼は私に付き添ってくれた。

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