隠れた気持ちとフェルマーの影響

 「おーっと、城崎しろさき君?そこ、符号ついてますよ」

 「あ、見えてなかったわ。サンキュ」


 あー、マジで嫌だ。何だ、この空間は。

 浜辺はまべが好きだと自覚した数時間後にこの状況はキツいわ。

 放課後の市立図書館。

 僕は頬杖をついて、目の前で数学を教えている浜辺と、教わっている達也たつやを眺めている。


 「あ、また符号ついてない」

 「いやー、ほんと見落としちゃうんだよね、テストでもよくやる」

 「さすがにテストはヤバいですよ?その一つのミスで成績が落ちるんですから」


 浜辺に敬語は似合わない。友達と毎日放課後に勉強する僕以上に似合わない。


 「かける、浜辺さんとっちゃってゴメンね?」

 「何のことだ、何の」

 「いやぁ?」


 わかったような口を利いてくるのが本当に悔しい。


 「翔君、寂しかったのかなー?」

 「違……ッ」


 にやにやと笑ってくる浜辺。


 「だーいじょうぶっ。翔君にはいつだって教えてあげるから」


 Vサインを向けてきた。

 さらっと惚れちゃいそうなことを言ってくるな、と言いたかったが、実際惚れてしまっている僕が言うのはどうなのか、と思い直して口をつぐんだ。


 「城崎君ったら、数学が全然頭に入っていないんですから」

 「いやー、数学って眠くなるんだよ」

 「そうですかね」

 「先生の声とかもう子守歌と同義だから」

 「はいはい。テスト前にはちゃんと復習してくださいね?」


 あれ、僕の時と違って、私は数学オタクだ、とか言い出さないんだ?

 二人だけの秘密だと思うと、この状況も少しだけ楽しく思えてきた。


 「何ニマニマしてんの、翔君。気持ち悪いよ?」


 くっそぅ。


 「だから、いつでも教えてあげられるんだからねないのっ」


 あー、「いつでも」ってところを強調してくれるのが嬉しすぎる。


 「わかってるって」


 やっぱり口元が緩むのが止められないので、キュッと口を引き締める。


 「そういえばさ、浜辺さんって下の名前なんて言うの?」

 「知らなかったのかよ」

 「え、話したこともないクラスメイトの名前だぜ?」


 浜辺の目の前でものすごく失礼なことを言う達也。

 達也はしれっというけど、いくら話したことがないからって、自分の名前を憶えてもらっていなかったら悲しくないか?


 「むしろ翔は憶えてるのかよ」

 「当たり前だろ、クラス替えして二週間で覚えたわ」

 「はーっ、やっぱり成績優秀クンは違うね?」


 その言い方やめろ。


 「あ、そうだったね。翔君は数学だけじゃなくて、全部の科目できるんだよねっ」


 自分のことでもあるかのように、誇らしげな顔で笑いかける浜辺。

 あーもう可愛い。


 「私の下の名前は瑠麻るまって言います」

 「へー、なんか珍しい気がする」


 言われてみたらそうかもしれない。


 「確かに、僕も浜辺以外に会ったことがない」


 浜辺は少し目を伏せた。


 「父がフェルマーから取って付けてくれた名前なんです。ほら、フェーのルマ」


 そうか、お父さんが……。

 浜辺の家の事情を知っているだけに、なんだか申し訳ない気分になってくる。


 「可愛い名前だよな」


 はぁ?

 一瞬耳がおかしくなったかと思った。

 そして思い出す。達也は元からこういう奴だったじゃないか。

 そこそこっ。なに下手なナンパしてるんだっ。


 「なっ、翔」


 唐突に振られてビクッとする。


 「あ、ああ、まあ」


 急に話しかけられたので微妙な返事になってしまった。

 名前までフェルマーを意識しているなんて、生まれたときから数学好きになる運命みたいなものじゃないか。

 内心そう思っていたが声に出せなかったのは、名前の由来をどこかのタイミングで僕に教えてくれていてもよかったじゃないか、と少々自分勝手な理由でむくれていたからだ。


 「城崎君、翔君は放っておいて、私たちはテスト勉強の続きをしましょう?」


 むぅ。


 「そうだな」


 そうして二人はまた、数学のテスト勉強を再開した。

 その様子を頬杖を突きながら眺める。





 達也は、その人柄からか、男女問わず好かれる奴だ。

 実際、今日初めて話す浜辺とだって、こんなに会話が弾んでいる。

 コミュ力の塊×コミュ力の塊、みたいな?

 そうだよな、浜辺は隠しているだけで本当は結構明るい性格なんだよな。

 いつかは、浜辺がクラスのみんなと打ち解ける日が来てもいいと思っていた。

 だが、達也と少し打ち解けただけでこんなにも胸の中がザワザワするなんて。


 こんなの、僕が浜辺のことを独り占めしたいみたいじゃないか—――……。





 「翔くーん、聞いてますかー」

 「ひ、ひゃわッ!?」


 ひゃわッ、だって、可愛い、と浜辺がくすっと笑う。


 「わ、笑うなッ」

 「あれぇ、耳が赤いよ?」


 耳の先をツン、とつつかれ、心臓が大きく跳ねる。


 「あ、もっと赤くなった」

 「うるっさいッ」


 ふと見まわすと、達也がいない。


 「達也は?」

 「ああ、城崎君なら帰ったよ。塾があるとか何とか」


 へぇ。

 時計を見ると、ちょうど午後五時。

 まだ勉強できそうだな。


 「では翔君。Let's数学!」


 この時間からでも、教えてくれるんだ。

 ちょっと物足りない気分だった僕には、その言葉が胸の中で弾んでいた。





 翌朝、学校に着くと、早速達也が嫌なことの前触れ、ニヤニヤ笑いを浮かべて近づいてきた。

 「おはよ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど?」

 「おはよう。謹んでお断りいたします」

 「何だよ、ちょっとだけだから、ちょっとだけ」


 しつこいな……。


 「却下。どうせろくでもないことだろ」

 「聞いてみないとわかんないぜ?」


 くっ……。言い方が上手い。

 心の中でちょっと気になっている自分にも苛立つ。


 「じゃあ、言うだけ言ってみろ」

 「翔って浜辺さんのこと好きなの?」

 「な゜に゜言ってんの゛」

 「いやお前が何言ってんの」

 「え、別に図星とかじゃな゛い゛よ゜」

 「いやいやいや、言葉に動揺が現れてるって。それに自分で図星とか言っちゃってんじゃん」


 ……仕方ない、観念しようじゃないか。


 「いつ気づいた?」

 「授業中に付箋のやり取りを始めたときから」


 そんなに前かよ。っていうか、よく見てたな……。


 「俺はいつでもクラス全体を把握してたいのー」


 何だ、その変態みたいな趣味は。


 「どこが好きなの?」


 絶対言いたくねぇ……。

 その気持ちが顔にも表れていたのだろう。


 「ガチで嫌そうな顔すんなって!友達に好きな人ができたらまず聞かなきゃいけないことだろ!?」


 そんなに重要なことだとは知らなかったなー。


 「そのくらい、いいだろー」

 「ところで達也、好きな人はいないのか?」

 「いや話逸らすの下手かよ」

 「あ、バレてた?」

 「当たり前だ」


 キーンコーンカーンコーン—――……。

 おっと、ちょうどいいところでチャイムが鳴ってくれた。


 「達也、自分の席に戻らなきゃ駄目だぞ」

 「くそぅ、チャイムめ。恨むぞ」


 勝手に恨んでろ。

 担任が話し始めたのを遠くに聞きながら、僕は窓の外—――いや、窓ガラスに映る浜辺の顔をいつものように見つめた。


 達也には、数学の時間の浜辺の楽しそうな表情が好きだなんて、言えるわけがない。

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