憂鬱な二人
僕は小学校受験をした。
父が働きすぎたのはキャリアのせいだ、と考えた母が、僕をエリートに育て上げようとしたからだ。
結果は不合格。
母は落胆したが、中学受験に賭けることにした。
小一から塾に通わされ、遊ぶこともほとんどない生活。周りが遊びに誘ってきても、塾を理由に断る。
ずっとそんな生活だったため、遊びたいとも思わなかった。
高学年になると、中学受験をする人としない人に差が出てくる。
……もちろん成績―――勉強面にだ。
僕の成績はいつもクラスでトップで、テストが帰ってきた日はいつも、自信満々に母に見せる。
しかし、母は言った。
「百点じゃないと意味がないじゃない。それに、学校の簡単なテストで高得点が取れたから何なの?どうせなら塾の勉強を強化しなさい」
問い:そんなことを言われながら勉強をつづけた受験生はどうなるか。
答え:不合格。
当然、結果はわかりきっていた。
小学校受験の時は落胆を隠し、優しく慰めてくれた母だったが、中学受験では苛立ちを隠そうともしなかった。
合格発表の掲示板の前。表情を失った母の顔。
僕は多分、その時のことを一生忘れないと思う。
母は僕をキッと睨んだ。
僕の頬から乾いた音が響く。
自分が引っ叩かれたのだと気づいたのは、周りの人だかりがザワザワと騒ぎ始めたときだった。
周りの注目を一身に浴びた母は、取り繕おうともせず、「帰るわよ」と言った。
その日から、僕は母を避けるようになった。
母も僕と口を利こうとしなかったので、必要最低限の会話しかない。
そんな生活が今も続いている。
「わぁ、過酷……」
一言で片付けないでほしい。僕がどれだけ苦労してきたか……。
「じゃあ、私と一緒だね。母親に苦手意識を持っていること」
そう、なるのか……?
「ってわけで、数学がんばろうね!」
明るく浜辺は言うが。
「何で僕が数学が嫌いか教えてやろうか」
「えー、何で?」
「もともと嫌いだったが、中学受験のときに、公式が頭から飛んで、それがトラウマになったんだ」
「わお。それは大変」
反応がいちいち軽い。
「ま、高校受験ではそんなことのないようにね☆」
ウインクが飛んできた。
高校受験でそんなことがあったら、母さんに何て言われるか……。
「うちのお母さんよりはマシだと思うよ?だって、そんなに教育熱心なのも、亡くなったお父さんのためなんでしょ? 私のお母さんはお父さんへの愛なんて今は微塵もないもん」
そうとも言えるか……。
「あーあっ。なんか疲れちゃったぁ。今日はもう、帰んない?」
「ああ」
いつの間にか日は暮れ、空には星が瞬いている。
校門の前で浜辺と別れ、家に向かって歩き始めた僕は、なぜだか奇妙な達成感に包まれていた。
それから毎日、僕は浜辺と放課後の数学授業を続けた。
ピエール・フェルマーに始まり、ユークリッド、アルキメデス、レオナルド・フィボナッチ、レオンハルト・オイラー、アイザック・ニュートン……。
様々な数学の歴史の偉人たちの功績を教わっていると、なんだか、今普通に使っている公式だとか計算方法だとかに愛着がわいてくるようになってきた。
「
親友の
「どこからの情報?」
「忘れた」
「……」
情報網を張りすぎて、誰からの情報かも忘れてしまったのか……。
「いいから答えろよ」
「付き合ってない」
「ネタは上がってんだぞ」
「本当に誤解だから」
「じゃあ、何で放課後の図書室に二人で楽しそーにお喋りしてたんだよ?」
達也が言っているのは、不良の呼び出しのような言葉を掛けられた初日のことだろう。二日目以降は、知り合いにバレるのを恐れたため(主に僕が)、近所の市立図書館で勉強をしていた。
しかし、今の達也の発言には、一部間違いがある。
確かに僕たちは喋ってはいたが、話している内容は死んだ父親と離婚により別れた父親のことだ。周りからどう見えたかは知らないが、少なくとも楽しく話せるような内容ではない。
「勉強教えてもらってたんだよ」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
事実とは少し違うが、嘘を言っているわけではない。
「だってお前、めちゃくちゃ頭いいじゃん」
「そうだよ? そうだけど苦手な科目だってあるし」
コイツさらっとマウント取りやがった、と達也が毒づく。
「どっちにしろ、勉強を教えてもらっているって時点で付き合ってるように見えるだろ」
「だから付き合ってないって」
腕組みをして、うーん、と考えている様子の達也。
「承認できかねます」
「別にお前に承認されなかったからってどうってことないし」
「悪かったって。ちょっと
何がだよ。
「翔だけ女の子と勉強なんかしちゃって、ズルい」
「相手があのクイーンでも、か?」
浜辺のことを悪く言いたいわけではないが、あの居心地の良い空間を、達也に邪魔されたくはなかった。
「うーん、そこなんだよなぁ」
腕組みをして
「でも、翔がやっていけてるなら俺にもできる気がするんだよ」
まぁ……、確かに。達也のフットワークの軽さは、あの数学クイーン相手でも通用するだろう。だが、
「駄目だ」
「えぇ—――……。お願いっ」
両手を合わせて拝まれてしまうと、もう逃げ場はないような気持ちになってしまう。
「……一回だけ、なら」
部活の予定が合わないらしく、達也が、今日一緒に勉強したい、と頼んできた。
これは僕の勝手な我儘なのだが、達也に、僕が数学の面白さを知るために浜辺と勉強をしていることは知られたくない。
だから、今日だけ普通にテスト勉強をしているように見せかけてほしい、と浜辺に頼むことにした。
事前に用意していた付箋を、数学の時間にこっそりと浜辺に渡す。
『今日の放課後授業のことだが、友人の城崎達也が参加したいと駄々をこねたため、数学クイーン様のご意見をいただきたいです 数学嫌いの翔』
最後の署名は、この間浜辺に貰った付箋を参考にしたものだ。
付箋を渡してから、すぐに返事が来た。
『私は別にいいけど、翔君は嫌じゃないの? 数学クイーンの
前に貰った付箋と同じ、円周率の罫線の付箋だった。
「嫌じゃないの?」ってどういうことだ……?僕と同じように、二人で勉強したいってことでいいのか……?
『もちろん嫌だ。だが、手を合わせられたら断れない性分なんだ』
『それなら仕方ないか……。』
『だから、今日は普通にテスト勉強にしないか?』
『おっけー』
付箋の大量消費。
まあ、僕はそこまで付箋を使うタイプではないので、困ることはない。むしろ消費できてよかったくらいだ。
付箋での会話が一段落したため、いつものように、窓ガラスに映る浜辺の横顔をこっそりと盗み見た。
やっぱり浜辺の瞳は楽しそうに輝いていて、口元は僅かに緩んでいる。
(やっぱり普通に可愛いよなぁ)
その時、急にある考えに至った。
(この感情は、恋、なのかな)
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