フェルマーの最終定理
「『フェルマーの最終定理』って、結局何なんだ?」
「あー、わかんないかぁ」
わかるわけないだろ、「nが3以上の自然数の場合、xⁿ+yⁿ=zⁿを満たす自然数、x、y、zは存在しない」なんか。仮にそれがわかったからなんだって言うんだ。
「えーっと多分、数学嫌いには理解できないと思う」
だろうな。
「説明に戻ると、フェルマーさんにはいろんな業績があるんだけど、その中の結構多くが結果だけが簡単に書かれたものだったの。フェルマーの最終定理も例外ではなくて、ある数学の本の余白に書かれていたものなのね」
へぇ。せっかくなら結果だけじゃなくて過程も書けばいいのに。
「今までにフェルマーの最終定理の虜になった数学者が何人いたことか。レオンハルト・オイラー、ソフィー・ジェルマン……。数え上げたらきりがないほどよ」
そんなに魅力的なのか……?
「そりゃあそうよ!今までに誰も証明できなかった定理なんて、解き明かしてみせるのが数学者の夢よ!」
グッとこぶしを握る
そうなのか……。
「で、その定理は証明されたのか?」
「ええ。確か、1995年くらいに、アンドリュー・ワイルズって人が証明したと思うわ」
何だ、「確か」って。適当だな。
「正確に覚えていないのよ、それに覚えるどころじゃなかったし」
「何でだ?」
そう聞くと、浜辺は子供のように唇を尖らせた。
「だって、私以外が証明しちゃったなんて、すっごく悔しかったんだもんっ。私がフェルマーの最終定理を知ったときにはもう証明されてちゃってたんだよ? それがすごく悔しいのっ」
やっぱ、数学好きの言うことはわからん。
「何でそんなに数学が好きなんだ?」
パッとこちらを見た浜辺の瞳が揺れる。
言おうかどうしようか
「……父の影響なの」
「……そうか」
なんとなく、浜辺がこの話題には触れてほしくないと思っているような気がしたので、僕はそれ以上聞かないことにして、話題を変えようとした。
「ところでだけど……」
「あ……」
「ん?」
なぜだかわからないが、浜辺が椅子から腰を浮かせかけた。
「何だ?」
なぜだかもじもじしている浜辺を
「あの……、私が数学好きになった理由、聞いてもらっても、いい、かな……。少し暗い話なんだけど……」
言いづらいようなら言わなくてもいいんだがな……。
「ああ。わかった」
浜辺は口角をキュッと上げて笑った。
「ありがと」
浜辺の話を簡潔にまとめるとこうだ。
浜辺の父親と母親は離婚しており、今は母親の元で暮らしている。その別れた父親が数学者だったのだそうだ。
母親も働いていたが、父親の収入が安定せず、このままでは浜辺を養っていけるかが怪しい、と思った母親が、浜辺がちょうど小学校に上がる前の年に離婚する話を持ち掛けた。
浜辺としては、幼少期から数学を教えてくれていた父親と離れるのは耐え難かったが、母親が無理に引き離したという。
それから、浜辺は母親に心を閉ざすようになってしまったのだそうだ。
父親とは、今でも手紙をやり取りをしており、最近は母親に隠れて会いに行ったりもしているらしい。
「それは……その、何だ、災難だったな……」
それ以外になんと言えばいいんだ?
「いーの、いーのっ。私、もう傷は癒えてるから」
浜辺はそう言っているが、無理して笑っているのがバレバレだ。
大体、今に至るまで母親に心を開けない奴が、傷は癒えてる、なんて言っても信じられるものか。
「……そんなに僕って頼りないか……?」
「え」
独り言だったので拾われるとは思わなかったうえ、言っている内容がちょっと恥ずかしかったので、悪態をつくように吐き捨てた。
「本心を隠せていると思ったら大間違いだ、この数学オタクめ」
浜辺は、目を大きく見開いたかと思うと、顔が泣き出しそうに歪んだ。
その顔を隠すように
机に水滴がポタポタと落ち、小さな水たまりを作った。
そして、喉の奥から絞り出すように言う。
「私と話が合ったことがあるのって、お父さんしかいなかったんだ。でも、そのたった一人の理解者まで失っちゃったから、誰とも話せなくなって……」
そこで言葉が途切れ、小さく鼻をすする音が聞こえる。
僕はわざとらしく咳払いをすると、口を開いた。
「浜辺が家庭の話をしてくれたから、僕も一つ家の話をしよう」
俯いていた浜辺が顔を上げた。
物心ついた時、既に父親はいなかった。
僕が生まれる前に亡くなったらしい。
僕の父親は高卒で就職した。その会社で、父は高卒と大卒のたった四年だが、大きな差に愕然とする。
そればかりは父の不運を哀れまずにはいられない。その会社には、高卒と大卒とのヒエラルキーが確立していたのだ。
中卒が一番下。その次に高卒。その上にはそこそこの大学を出た者で、頂点は一流大学出身の者だ。
しかし、中卒など実際はほとんどいなかったため、実質高卒がカーストの最下層に位置していた。
上の階級であるほど昇進も早いため、同期がいつの間にか上司になっていた、なんてこともあったそうだ。
父は働いた。
高卒のハンデを覆すには、働いて認められなければいけない。大卒と同じように使ってもらうには、誰よりも努力しなければならない。
その信念だけを胸に、父は働いていた。
やがて、当時付き合っていた僕の母と結婚する。
家庭を持ったことで、父はより一層仕事に励むようになる。
ヒエラルキーは尚も健在だった。父はそれを仕事の量で補おうとしていたのだ。
そんな中、僕が母のお腹に宿った。
父は僕を、生まれる前から溺愛していたそうだが、その反面、職場での残業も増えていった。
母はそんな父を気遣い、何度も休みを増やすように言ったそうだ。
しかし、父は言った。
「俺が息子とお前を守らなくてはいけないんだ。まだ、頑張れる」
母は心配を抱えてはいたが、父のその言葉を信じ、何も言わないことにした。
そんな矢先、父は倒れる。
母は病院に駆け付けたが、父は昏睡したまま目を開かない。
その日のうちに、目を覚ますこともなく静かに息を引き取った。
過労死だった。
母は何度も自分を悔いた。どうしてもっと真剣に止めようとしなかったのだろう、と。
僕はまだ産まれておらず、一時期は子育てなんか無理だ、と諦めかけたそうだが、亡くなった父のため、と思い、僕は産まれた。
「いい話じゃない」
それだけ? と問いかけてくる浜辺を視線で
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