ところでだ。

 翌日のことだ。

 朝登校したら、机に付箋が貼ってあった。


『今日の放課後、図書室に来るように! 数学クイーンの瑠麻るまπ』


 おお、数学オタクを名乗るだけあるな、なぜか文末に「π」がついている。

 意味があるかは知らないが、多分好んで使っているのだろう。

 少しの間、付箋を眺める。

 ……ん?

 あることに気づき、眉根を寄せて僕は付箋に顔を近づけた。

 罫線けいせんが引いてあるタイプの付箋だったのだが、その線をよく見ると、円周率の数字で構成されているのだ。

 思わず呟いていた。


「数学オタク、すげぇ」





「あ、やっほー、かける君」


 ついに名前で呼んでくるようになったか。コミュ力の塊め。そのコミュ力をもっと日常で発揮すればいいのに。

 ここは放課後の図書館。約束通り、僕は数学を教わりに来たのだ。


「翔君の名前っていいよね、ほら、掛け算の『×』」


 指でバッテンの形を作って勝手なことを言っている。

 よく考えてみれば、女子から名前で呼ばれるのは初めてだ。

 しかし、実際に名前で呼ばれてみても、特に何ともない。女子から呼ばれたらもうちょっと嬉しいものだと思っていたが。

 その気持ちが表情に出ていたのか、浜辺がムッとしたように言う。


「悪かったですねー、初めての名前呼びが数学オタクなんかで」

「悪いとは言ってないが?」


 むう、と頬を膨らませる姿は、クラスの中心にいる女子たちと何ら変わりない。

 むしろ、無駄に着飾って自分をよく見せようとしている彼女らより、自然体の浜辺の方が可愛いと思えるくらいだ。

 そう思ってしまったことが少し悔しかったので、ちょっとからかってみることにした。


「僕は浜辺のこと、可愛いと思うけどな」

「えっ、う、嘘」


 人と関わり慣れていないからなのか、浜辺の顔に赤みが差し、パッと下を向いた。

 その照れている様子に、僕は一瞬だけ、いや、やっぱり普通に可愛いかもしれないな、と思ってしまったが、その感情は表に出さず、ニヤリと唇の端をつり上げる。


「なーんて、本気にしたか?」

「わ、私も、翔君のこと、かっこいいと思う、よ……?」


 これは完全に不意を突かれた。

 上目遣いでうるんだ瞳を僕に向けてくる浜辺。

 ぐは……っ。

 ただでさえ顔の整っている浜辺だ、そんな表情をされてしまえば耐えられるわけもない。


「……あ、あぅ」


 そう返事をするのがいっぱいいっぱいだ。

 その様子を見た浜辺は、今までの恥ずかしそうな表情をかなぐり捨て、ニヤニヤ笑いを浮かべた。


「なーんて、本気にした?」


 その言葉がさっき僕がからかった時の口上と同じなのは、自分の方が一枚上手いちまいうわてだ、ということを強調させたかったのだろう。

 くそっ、さっき顔を赤らめたのは演技だったのか。


「私をからかおうなんて百年早いよー」


 いくら本人が乗り気じゃないにしても、そのコミュ力なら、その気になったら友達なんて何人でも作れるんじゃないか?


「わかったなら、始めよっ」

「ああ」


 僕は浜辺の真正面の席に腰を下ろした。

「今日はね、急に数学について始めるのもどうかと思って、私の推しから教えようと思うんだ」

「ええ……」


 数学クイーン様は僕の反応がお気に召さなかったようだ。


「数学が好きになりたいなら、まず知ってもらわないといけないのっ!そして、あわよくば数学オタク仲間になってほしいの!」


 おい。妄想が駄々洩れだぞ?


「あっ、え、えっ。今、声に出てた?」


 すごい慌てっぷり。いい見世物じゃないか。


「ああ。出てた」

「うっそぉ……」


 僕が引くとでも思ってるのだろうか。

 昨日初めて言葉を交わしたばかりだが、浜辺がそんなことを考えていることくらいはわかる。


「別に今更、引くとかありえないから」


 数学オタクって時点で引いてるしな。

 ……あれ、昨日カミングアウトされたとき引いたっけか?


「それ、言われても何の慰めにもなってないんですけどぉ……」

「いや、別段気にする必要はない、ってことだよ。だからさっさと授業、始めてくれ」


 浜辺は、それでもなお、腑に落ちない顔をしていたが、気を取り直したようで、ノートを取り出した。


「これ、私の活動記録。すうオタのね」


 “数オタ”って略すのか。


「活動記録まで作ってるんだ。堂に入ったオタクぶりだな」

伊達だてに数学オタクを名乗ってませんから?」


 まあ、そうだろうな。

 浜辺はノートを開いた。


「おお—――……」


 ノートの中は、何やら難しそうな数式がたくさん書いてある。

 う、見ただけで頭痛が……。


「頭痛は克服しないとねー」

「そうだな。……そういえば、浜辺の『推し』は誰なんだ?」


 それを聞くと、なぜか浜辺は頬をポッと赤らめた。


「え、えと……、フェルマーさん、です……」

「何で恥ずかしそうにしてるんだ」


 きゃー、と浜辺は頬を手で包み込んでいる。

 フェルマー、か……。

 そう呟くと、浜辺が目をクワッと開いた。


「〝さん〟をつけなさいッ! 何なら〝様〟をつけろッ!」


 あー、あー。オタクってめんどくせー。


「僕、別にフェルマーさん推しじゃないし」

「それでもフェルマーさんはすごい人じゃんッ」


 まあな、さすがの僕でもフェルマーの最終定理くらいは聞いたことはある。


「そうッ! 今日はフェルマーの最終定理を教えようではないか!」


 椅子に片足を置き、右手の人差し指を天井に向け、左手は腰。

 いちいちポーズをとる必要はない気がするが……。


「そこはいいのっ」


 浜辺は慌てて座ると、ノートの新しいページに、シャッシャッ、とシャーペンを走らせた。


 xⁿ+yⁿ=zⁿ


 小さい字だった。


「意外と小さい字なんだな」

「仕方ないじゃない。ノートに途中式を書いていって、途中で次のページに行っちゃうのは嫌なの」


 へぇー。そんなこと、考えたこともなかった。実際、途中式が次のページに行ってしまうような問題も解いたことがない。


「で、この式にはどんな意味があるんだ?」

「よくぞ聞いてくれましたっ。この式はね、『nが3以上の自然数の場合、xⁿ+yⁿ=zⁿを満たす自然数、x、y、zは存在しない』っていう意味なの」


 うわぁ、超意味不明。


「これは何に役立つんだ?」


 すると、浜辺の顔がスッと無表情になった。


「それ、聞いちゃう?」


 いや、役に立たないなら何の意味もないじゃないか。


「あ—――……。翔君って、そういうタイプかぁ……」


 何だか知らないが、がっかりされたようだ。


「あのね、数学者にその言葉は禁句だよ」

「浜辺、数学者じゃないだろ」

「ま、まあそうだけどっ。数学好きにも言っちゃ駄目だよ」


 なんでだ?


「役に立たなくても、追いかけることにロマンがあるから私たちは数学のとりこなの」


 そう言って、不敵に微笑む彼女は凛々しくて、そしてすごくかっこよかった。


「もちろん後からいろんなことに役立つじゃん、みたいなこともあるけどねー」


 後に続けたそんな言葉など気にも留めないほど。 

 そして—――……憧れてしまいそうになるほど。

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