数学クイーン
宵待草
窓越しに見えた彼女の素顔
突然の質問を許してほしい。
これを読んでいる君は、数学が好き、もしくは得意か?
僕は嫌いだ。
同じように数学が嫌い、苦手な人は少なくはないと思う。
第一に、数学は何に役立つんだ?四則計算は日常で使うが、円錐の体積の求め方なんて、普段使う人はあまりいないと思う。
学習する必要があるものは、日常で役に立つもの、それだけだ。
――そう思っていた。彼女の素顔を知るまでは。
僕の席は窓側の一番後ろ。ご存じの通り、人気の高い席だ。
くじ引きでこの席になった時、僕がどれほど喜んだかは言うまでもないだろう。
先生の目もあまり届かない。授業に飽きてしまったら窓の外を眺めることだってできる。
最高じゃないか。
――……彼女が僕の前の席ではなかったらな。
僕の前の席で窓の外を見つめているのは、
表情が変わることが少なく、いつも下ろしているセミロングの髪の毛が、より彼女の表情を暗く見せている。
誰とも付き合おうとしない、変わった奴。
それが、クラスの中での浜辺の立ち位置だった。
取っ付きにくさからか、彼女は陰で「クイーン」と呼ばれるようになっていた。
成績が学年の中でトップクラスだったことも理由の一つだろう。
そのあだ名も災いして、彼女が人と関わらないのは小学校でいじめの主犯だったからだとかなんとか、という噂が独り歩きするようにもなった。
もちろん彼女はそんなことを気にしちゃいないだろうが、やっぱり中学校生活でそういうレッテルを貼られているのはキツいだろうな、とも思う。
まあ、関わる気は全くないんだが。
しかし、そんな考えを早々に捨てなければいけないような事態が起きた。
数学の授業では、週一で小テストがある。毎週金曜日の五時間目、それは俺にとっての苦痛の時間だった。
席替えをしたのが金曜日の朝のHRだったので、その日の五時間目には小テストが待ち構えていた。
席替え早々、ツイてねー。
僕は、自慢じゃないが自分でも頭の良い方だと思っている。成績トップクラスの浜辺と張り合えるくらいだ、数学の問題も解けないわけではない。
ただ、嫌いなだけだ。
見直しをする気にもなれず、窓の外に目をやった時だ。
なぜか、浜辺の笑顔が目に飛び込んできた。
え、何で?
よく見れば、それは窓に映った浜辺の姿だったのだが、僕が驚いたのはそこではない。
笑ってる……。
感情を表に出すことの少ない浜辺が、口元を緩ませているのだ。驚かずにはいられない。
彼女は、鼻歌でも聞こえてきそうな表情で数学の問題をサクサクと解いている。
その楽しそうな顔は、僕が今までに見たことのないものだった。
キュッと心臓が縮こまる感覚に襲われる。
なんだ、この感じ……。
その時、問題を解き終えたのか、ふと浜辺が手を止め、顔を上げた。
ヤバい――……。
僕は慌てて目を逸らした。
心臓がドクドクと脈打っているのを感じる。
それから、一週間で一番苦痛だった金曜の五時間目は、浜辺の珍しい笑顔を眺める時間になった。
問題を解き終わると、窓の外を見ているような振りをして、浜辺の横顔を見つめる。
本当に楽しそうな表情で解いてるよな……。
つかの間、その横顔に見惚れる。
よく見れば、まつ毛も上に向かってカールしていて綺麗だし、目の形も整っている。
〝クイーン〟って感じじゃ、全然ないんだよな……。
そんな考え事をしていると、いつもだったら見逃さないはずだが、浜辺が手を止めたことに気が付かなかった。
窓を介して二人の視線がぶつかった。
数秒の沈黙の後。浜辺がふっと微笑んだ。
形容しがたい感覚に襲われ、僕は思わず窓から目を逸らした。
――ああ、まただ。この、心臓が掴まれたような、キュッとした感じ。
この感情の正体は、何なんだ……?
その日の数学の授業の後のことだ。
浜辺とすれ違う瞬間、静かな
「今日の放課後、
その後に鋭く、図書室ね、と付け足される。
僕の背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。
〝クイーン〟の噂は本当だったのか?
後日、変に絡まれても面倒くさいし、とりあえず顔出すか。
結果から言おう。
特にカツアゲなどはされなかった。しかし、何度もこの世界が現実なのか夢なのか悩んだ。
あの、人形かと思われるほどの無口、無表情を徹底していた浜辺がフレンドリーに話しかけてくるなんて。
「やっほー。
思わず頬をつねっていた。
どこにでもいそうな僕の名前を憶えているとは思わなかった……。
「やだなあ、西野君。夢じゃないよ?」
「夢じゃないならこの状況をどうやって信じろというんだ?」
うーん、と手を口元に当てて考えるポーズ。
こうして向かい合ってみると、浜辺は意外と顔が整っている。
「わかんないや」
てへっ、と笑う浜辺。
何だか背中がムズムズする。それはこの浜辺の変貌ぶりと無関係ではないだろう。
浜辺が、まるで十年来の付き合いの親友と接するような口調で喋るもんだから、僕までそんな口調になってしまう。
「……浜辺、〝クイーン〟というあだ名を知ってるか?」
「何それー」
……知らないのか。
「君のことだよ、君のあだ名」
「あら、光栄ね」
そのあだ名、嫌じゃないのか……?
嫌じゃないなら呼んでみようじゃないか。
「それはそうと、僕に何の用だ?クイーン」
僕が〝クイーン〟と呼んだことなど一ミリも気にせず、彼女はパッと表情を明るくした。
「そうそう、私ね、西野君に言いたいことあったんだー」
そりゃあそうだろう。そうじゃなければ僕が図書室にまで呼び出された意味が分からない。
「まず一つ目。『面貸しな』なーんて怖い言い方しちゃってごめんね?一回言ってみたかったの」
無邪気な笑みの浜辺。
そんな理由で僕は無駄な冷や汗を流したのか……。
「それで二つ目。何で数学の小テスト中に私に見惚れていたのかな?」
からかってるだけのつもりなんだろうけど、浜辺のニヤニヤという笑いが、悪魔の微笑みに見える。
「いや……。問題解き終わってふっと窓の外に目を向けたら……浜辺の顔が反射してたっていうか……」
自分の顔は見えないが、今鏡を見れば、これまでにないってくらいに僕の目は泳いでいるだろう。
彼女は、どこか見定めるような目つきで僕を見る。
「そう……。それじゃあ毎度毎度、偶然私の姿が目に入ったってことかな?」
……っ!バレていたのか……。
ついに観念した僕は、重い口を開いた。
「……すごく、楽しそうな顔で問題を解いてたから」
「あらぁ、顔に出ちゃってた?」
はい、そりゃあもういい笑顔でした。
「そっかぁ……、うーん……」
どうやら考えているときに口元に手を当てるのは癖らしい。
「やっぱり、隠しておくのは良くないよね」
うん、と一人頷いてから、浜辺は僕に視線を戻した。
「私ね、数学オタクなの」
……ものすごく重大なことを口にしたような表情のところ悪いが、数学オタクって、何だ?
「えっと、どうやって説明すればいいのかな……。極端に言えば、アルキメデスが推しです、みたいな?」
うわぁ……。
「それはそれは独特な趣味をお持ちで……」
「あ、ドン引きしちゃってる?」
慣れた風に、さらっという浜辺。
「こういう風に引かれるの、もしかして慣れてるのか?」
「いやー、私さ、訳あって小六のときにここに引っ越してきたのね。それでさ、自己紹介の時に趣味は数学です、って言ったら距離置かれちゃってさあ」
普通、小六は自己紹介で数学が好き、なんて言わないからな。
「まあ、そうなんだけどね。数学好きの人がいたら一緒に盛り上がるのが夢だったんだよねぇ」
ほう。それ、結構高望みだってわかってるのか?
「……わかってるよ。少なくともわかってるつもりではいた」
浜辺が唇をギュッと噛んで俯く。
……ちょっと言い過ぎたか?
しかし、浜辺はすぐに顔を上げ、どこか諦めたような笑顔で言った。
「だからさっ。中学でも友達は作る気になれなかったし、引かれたくないから数学オタクなのも隠し通して、独りでいるって決めたの」
「僕じゃ、駄目かな」
考えるよりも先に、言葉が口をついて出てきた。
一度口に出した言葉はもう戻らない。
浜辺が驚いているのには気が付いていたが、なぜだか喉の奥からスルスルと言葉が出てきて止まらなかった。
「僕、数学嫌いなんだ。でも、ずっと嫌いなままっていうのも癪だし。だからさ、数学の面白さを、教えてくれないかな」
言い訳めいた言葉。
でも別に噓をついているわけではない。
どれだけ嘘らしくても、浜辺が数学を諦めてしまうことだけは駄目だ、となぜか思ったのだ。
一瞬だけ形のいい目を大きく見開いたが、すぐにその顔を崩して笑顔を見せた。
「いいよっ」
—――こうして僕たちの放課後の授業が始まった。
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