第406話 虻蜂取らず

 現在、私は眼前に広がる光景に目を細めずにはいられなくなっている。


 眩しい…。

 風呂から上がり、体を乾かした皆の姿が、とても眩しい…。


 軽く風が吹くだけでその風に乗るようにして毛並みが柔らかく靡き、日の光を反射させて艶やかな煌きを発している。


 神々しさというのは、こういうことを言うのだな…。

 美しい…。ずっと見ていられる。

 勿論、私の頭髪も同じような状態になってはいるのだが、如何せん自分の頭髪であることに加えて、既にニスマ王国にいる間に見慣れてしまっているのだ。そのため、自分の頭髪の煌きにはそれほど感動が無い。というか、私の頭髪に関しては風呂に入る前と何も変わっていない。

 だから他者から何と言われようとも、自分のことよりも目の前の皆の方が美しいと思えるのだ。


 これからは、残量を気にすることなく、この光景を毎日拝むことができる。何と素晴らしいのだろう。洗料を開発した千尋には、感謝しかない。

 できることなら、生前の彼女に出会って色々と話をしてみたかったな。さぞ面白い話が聞けたに違いない。

 マコトと同じく、私にとって大切な友の1人になっていたかもしれない。


 それはそれとして、やはり素晴らしい光景だ。こうして眺めているだけでも、とても心が満たされる。

 今のあの子達に触れたら、どうなってしまうのだろうな…。


 ああ、ウルミラがコッチまで来てくれた。撫でさせてくれるのだろうか?


 〈ご主人?撫でないの?〉

 「皆とても綺麗になっていたからね。見ているだけでもとても幸せな気分になっていたんだ。撫でさせてもらっても、いや、抱きしめても良いかな?」

 〈うん!いっぱい撫でて!〉


 体を撫でて欲しいと、ウルミラが私に身を寄せてきてくれた!艶やかな彼女の体毛が、私の頬や腕の肌に当たって感触が伝わって来る!


 うぉっほほぅ!なんて素晴らしい感触なんだ!そんな風に体を摺り寄せられたら、理性が保てなくなってしまう!いいや!もう限界だ!モフる!


 ウルミラを抱きしめ、自分の顔を彼女の胸部に押し付けて首を左右に振る。

 この艶やかで柔らかな獣毛の感触…!堪らん…!ずっとこうしていたい!

 だが、顔で獣毛の感触を味わうだけではダメだ!ちゃんとウルミラのことを撫でまわして、彼女の獣毛の感触を手でも堪能しながら、彼女にも喜んでもらうのだ!


 〈キャフッ!キャフッ!エへへェ~、やっぱりご主人に撫でてもらうの、気持ちいぃ~〉

 「お互い様だね。君の毛並みもとても気持ち良いよ。しばらくの間、撫でさせてもらうね?」


 ああ!こうして至福の時間を存分に堪能できることの、なんと幸せなことか!

 だが私の欲望の何と強きことか!もっとだ!もっとモフモフを堪能したい!そう私の本能が叫んでいる!


 こうしてはいられない!再度『幻実影ファンタマイマス』の幻を出現させて、皆の毛皮や羽毛を堪能させてもらう!


 

 ハッ!?私は何をしていたんだ!?

 皆の毛並みを堪能しようと、幻を出現させたところまでは覚えているのだが…。

 確認してみれば、幻はすべて消失してしまっている。


 途轍もない至福の時を味わっていたような気はするのだが…。今私が味わえているのは、私が抱きしめているウルミラの獣毛の感触だけだ。

 勿論、この感触は素晴らしいとしか言いようがないのだが、周囲が既に暗くなっているのが少し気になる。

 今何時なのだろうか?いつの間にか意識を失っていたみたいで、正確な時間が分からない。時計を確認してみよう。


 なんてこった…。午後7時12分だって…?私が家に帰ってきたのは午後2時前だった筈だ。

 そこから風呂に入って時間を潰したとしても、精々が1時間かそこらだ。周囲もまだ明るかったのだ。


 それはつまり、過去にも何度か経験のある、感動しすぎて我を忘れてしまったというあの現象か!?

 至福の時間を堪能していた筈だというのに、何だかとても損をした気分だ…。


 〈ん?ご主人、起きた?〉

 「眠っていたわけじゃないんだけどね…」

 〈でも、幻消えてるよ?〉


 それを言われると、寝ていたと指摘されても否定ができない。しかし、私は確かにみんなの毛並みを堪能したのだ!


 「ちなみに、どれぐらいで幻は消えたか分かる?」

 〈う~んとねぇ…。みんなを撫でてから20秒ぐらい!〉

 「‥そう…。ありがとう」


 20秒て。いくら何でも早すぎないか!?それじゃあ皆で寝床に寝た時とあまり変わらないじゃないか!

 リガロウやフーテンと一緒に寝た時だってもう少し持ったぞ!?…大差ないけど。


 皆の毛並みがそれだけ素晴らしかったのか、それとも私のモフモフ耐性がまるでなかったからなのか…。どちらにせよ、欲をかいて皆の毛並みをいっぺんに堪能しようとすると、逆にろくに堪能できなくなってしまうようだ。


 本にも書いてあったな。

 [虻蜂取らず]。あれもこれもと欲張って取ろうとすると、失敗するという、今の私にピッタリの言葉だ。まさかこんな形で身をもってその言葉の意味を実感することになるとは…。


 とにかく、皆の毛並みの感触に慣れるまでは幻を使用して皆をいっぺんに撫でまわすのは、やめておいた方が良さそうだ。

 心苦しいが、それで至福の時間が味わえなくなってしまったら本末転倒である。我慢しよう。


 さて、皆は夜の時間と言うこともあり家の中へ、ラフマンデーは自分の巣に帰ったようだ。


 そういえば、皆にちゃんと帰ってきた挨拶もしていなかったな。流石にはしゃぎ過ぎたと反省しておこう。


 お土産…は皆がそろっている時に渡したいから明日渡すとしよう。まぁ、酒は風呂に入っている最中に渡してしまったのだが。

 全て渡してしまったわけではないし、良しとしよう。


 「私達も家に入るとしようか」

 〈うん!ご主人に抱きしめられてると幻を出せても『入れ替えリィプレスム』ができなくなるからね。身動きが取れずに困ってたよ〉


 それは申し訳の無いことをした。せめてものお詫びに、家で美味しい料理を振る舞わせてもらうとしよう。

 私の収納空間には、ニスマ王国の王城で制作したショートケーキだけでなく、チヒロードで作った料理が大量にあるのだ。勿論、味付けはこの子達に合わせて薄味にしてある。


 家に入ってみれば、皆思い思いに寛いでいた。その様子だけでも皆が皆、とても可愛らしい。


 私が家に入ってきたことで、皆の意識が此方に向けられる。


 〈お目ざめになられましたか、おひいさま〉

 〈幻が出たかと思ったらすぐに消えてしまったから、何事かと思ったぞ?〉

 「ああ、うん。碌に挨拶も済ませてない内からはしゃいでしまってゴメンね?それと、改めてただいま」


 帰ってきた挨拶をしていなかった点について指摘されるものかと思っていたが、彼等にそんな素振は無い。むしろ彼等は皆嬉しそうだ。


 〈それだけノア様は私達と触れ合いたかったっていうことだからね〉

 〈我等が姫様を喜ばせたというのであれば、それは我等にとっても誇らしく、そして喜ばしいこととなのです〉


 フレミーとラビックの言葉に、皆が頷いている。


 家の子達、皆凄く良い子だ。今すぐにでも幻を出して皆をいっぺんに抱きしめたい気持ちになるが、同じ轍を踏むつもりは無い。我慢した。


 「皆の気持ち、とても嬉しいよ。少し遅くなってしまったけど、食事にしようか。旅行先で大量に作ってきたから、たくさん食べられるよ」

 〈ご飯だわ!すぐに食べられるのね!?〉〈待ってたのよ!楽しみだったのよ!〉

 ―わーい!久しぶりのノアのゴハンだー!―


 口には出していないが、ヨームズオームやレイブランとヤタール達以外の皆も、料理を出すと聞いて嬉しそうにしてくれている。沢山食べてもらおう。


 『収納』から大量の料理を取り出せば、皆目を輝かせてこちらを見つめてくれている。早く食べてみたくて仕方がないのだろう。配膳を急ごう。


 「お待たせ。それじゃあ、食べようか。いただきます」


 食事の挨拶をした後、皆物凄い勢いで料理を口にしだした。

 料理を口に入れた傍から、風呂に入った時とは違った、それでいてとても幸せそうな表情をしている。ああ、強いて言うのなら風呂に入りながら酒を飲んでいたホーディやゴドファンスの表情が近いか。


 私に絡みつきながら食事を楽しんでいたヨームズオームが、私に何か言いたそうにしているが、口に料理を一杯まで詰め込んでいるせいか喋る気配がない。

 この子の声は魔力そのものを振動させたものなので、口に何かを咥えていようとも問題無く喋れるのだが、気分の問題なのだろうな。

 この子が今口にしている料理を飲み込むまで、ゆっくり待とう。


 ヨームズオームが口にしていた物を飲み込み、幸せそうな表情で私に声を掛ける。


 ―ねえ、ノアー?―

 「なに?」

 ―みんなで美味しいゴハンを食べると、とっても幸せになれるね~―

 「うん。そうだね。ヨームズオーム、君はここに来て、幸せ?」

 ―うん!お話しできる子達がいっぱいいて、一緒に遊んだり美味しいゴハン食べたりして、とっても幸せー!―


 どうしよう、涙が出てきそうになる。

 この子は私がこの場所に連れてくるまで、この子が語っていたような幸せを一切得ることがなかったのだ。

 もっともっと幸せにしてあげたくなってしまう。うん、幸せにしてあげよう。


 美味い食事に快適な空間、沢山の話し相手や遊び相手に大量の書物。この広場にかき集めてこよう!

 私は久々の皆との食事の光景を眺めながら、旅行に対して新たな決意を胸に抱かせた。


 食事が終わったら、今日はもう寝てしまおう。


 明日は朝から皆にお土産を渡すのだ。

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