第294話 ホテル・チックタック

 マフチスが手配してくれた"ホテル・チックタック"は、クラークがこの街一番の宿泊施設と豪語していただけあって、非常に大きく、そして豪華な作りをしていた施設だった。


 驚いた事に、ロビーのある1階には複数の売店があり、食料品から生活用品まで、様々な商品が陳列している。

 多分だが、最も安い部屋でも金貨が必要になるんじゃないだろうか?


 「これは、宿泊料も結構な額になりそうだね?」

 「この度ノア様にご宿泊していただく部屋の宿泊料は、一泊につき金貨30枚となっております」


 予想はしていたが、途轍もない金額だ。

 今の私ならば何の問題も無く支払う事はできるが、仮にこうして案内されなかった場合、進んで泊まろうとは思わなかっただろうな。


 『収納』から金貨を取り出して、とりあえず3日分の宿泊料をクラークに支払おうとしたのだが、慌てた様子で止められてしまった。


 「今回の代金は結構でございます!ノア様の御利用になられた料金は、カーワウン伯爵閣下よりお支払いいただく事になっているのです!」

 「そうなの?」

 「先程も申し上げました通り閣下からは、ノア様をこの上なくもてなすように仰せつかっておりますので、はい。ノア様には気兼ねなくこの街を、このホテルを楽しんでいただければと思います」


 随分と気前のいい話だな。それほどまでに私はマフチスから気に入られていたというのか?

 疑問に思うところだが、多少はマフチスの狙いが分からないでもない。


 多分だが、私は今後もこの街を訪れ、そしてこの宿を利用する事になると思う。今回のもてなしで、もう一度、いや、何度でもこの街に、このホテルに訪れたいと思わせようとしているのだ。


 一泊金貨30枚。リゾート地で観光をするのに一泊しか利用しないなどという事は基本的に無いと言って良いだろう。

 どれだけ少なく見積もっても、3日は利用する事になる筈だ。休暇を過ごしに来た貴族や王族ならば、1週間以上宿泊するかもしれない。


 ホテルで支払うのは宿泊料だけではない。食事に始まり、人を呼んでマッサージや楽器の演奏と言った、娯楽を楽しむサービスも提供している。


 そういったサービスも込みで考えれば、一度の滞在で消費する金貨は、300枚を余裕で越えると考えて良いだろう。


 一度の滞在料金を支払うだけで、今後は恒常的にほぼ同額の料金が手に入ると考えれば、悪くない手段なのかもしれない。まぁ、私が気に入ればの話だが。

 なにせ、私は長生きするだろうからな。このホテルが潰れない限りは、ずっと利用し続ける事になるだろう。


 他にも理由は考えられる。彼等は、私の影響力を用いて、ホテルの宣伝を行うつもりなのだろう。


 人間達は私の行動に注目しているようだから、私が宿泊した部屋に自分も宿泊してみたい、そう考える者も少なからずいるのだと思う。


 実際、私ではない別の著名人が利用した施設や絶賛した食べ物、大いに楽しんだ娯楽は、他の者達も体験してみたいと思うのが、大半の人間の心理らしい。


 勿論、このホテルが現在廃れている、というわけではない。多少の空き部屋はあるが、それでも7割以上の部屋が埋まっている。

 だが、逆を言えば3割は空き部屋があるという事だ。単純に考えても売り上げが3割増し見込めると考えれば、狙わない手は無いのかもしれない。


 ところで、私が利用する部屋はこのホテルで最も良い部屋のようだ。ファングダムで言うところの、ロイヤルスイートというヤツだ。


 「それにしても、よく部屋が空いていたね?」

 「それはもう。閣下より急ぎ知らせを受けた際に、街中にノア様がこの街に訪れる可能性が高いと伝わりましたから。予約なさっていたお客様も、自主的にキャンセルしていただきました」


 …本当に自主的なんだろうか?人間同士における高位貴族の影響力というのは凄まじいからな。


 傍から見れば平和的に見えても、実際にはかなり物騒な手法を取った可能性も、考えられないわけではないのだ。

 というか、私が知る悪徳貴族達ならば平気でやる手段だ。


 だがまぁ、そこはマフチスやクラークの人柄を信用しよう。私が見た限り、2人共どちらかと言えば善良な部類に入る人間だ。

 ここはキャンセルしてくれた客にも感謝しながら、ありがたく最上位の部屋を利用させてもらうとしよう。



 "ホテル・チックタック"は10階建ての建築物だ。階層が上がるにつれて一つの改装に割り振られる部屋の数も減っていき、私が宿泊する最上階は一階層全てが私の部屋となる。

 ただでさえ巨大な建築物だというのに、これではまるで大きな平屋だな。料金が桁違いに高額なのも頷けるというものだ。


 なお、10階建ての建造物では一般人では移動が大変なのではないかと思っていたのだが、そこは超高級と銘打つだけあって、移動手段は階段ではなかった。


 移動には驚くべき事に昇降機を使用したのだ。それも、移動先を指定すればその階層まで自動的に移動する非常に高性能と言える昇降機だ。


 速度は私の城の昇降機とは比べる間でも無く緩やかではある。だが、客を疲弊させる事なく目的地まで移動できるこの装置は、手放しで賞賛すべき技術と言って良いだろう。

 階層を指定して移動する技術、帰ったら私の城の昇降機にも取り入れよう。


 さて、私が宿泊する部屋なのだが、行動目的によっていくらか部屋分けされているようだ。

 寝る場所や食事を取る場所、屋内で遊ぶ場所でそれぞれ部屋が分かれていた。

 驚くべき事に、就寝のための部屋、寝室は一つだけでは無く4つも設けられていたのだ。

 家族で宿泊する者達のためだろうか?だが、1人で利用する場合でも一度の利用で複数の寝具を利用できるという楽しみ方ができそうだ。


 そう。寝室によって、部屋の装いや寝具のデザインが異なっているのだ。

 私はこの時になって、1人でこの部屋を利用するのは、とんでもない贅沢なのだという事が分かった。


 勿論、贅沢なのは寝室だけではない。クラークが言っていたように、この部屋にはキッチンも設置されていたわけだが、設備があまりにも本格的だ。

 簡易的な設備ではなく、高級なレストランや貴族の屋敷に設けられているような設備だったのだ。これは素直に凄いと思った。


 私の広場にある城にも調理施設を設けてはいるが、目の前にある設備とは程遠いと言って良いだろう。

 良し、この設備、徹底的に解析して、家に帰った時に城のキッチンを作り直す事にしよう。


 クラークが言うには、この設備を用いて自分で料理をしても良いし、人を呼んで作ってもらっても良いとのこと。

 本当に贅沢だな。高級というのは、突き詰めれば贅沢を極める、という事なのかもしれない。


 キッチンの確認が済んだので、部屋に入った時からそれとなく気になっていた、部屋の外にある設備を見に行く事にした。


 それは巨大な浴槽、とでも言えば良いのだろうか?しかし、浴槽に張られているのはお湯ではなく水だ。しかも、定期的に魔術具によって『清浄ピュアリッシング』の効果が発動している。この施設は一体何なのだろうか?


 そういえば、馬車で移動中にクラークが部屋の設備を説明している際に、プールという聞き覚えの無い単語を口にしていたな。ひょっとして、この浴槽がそうなのか?

 はて、これは一体、何をするための設備なのだろうか?


 魔術具の効果によって、水の状態は常に清潔を保っていると言って良い。飲む事も可能だろう。

 だが、飲むだけならば水道を使用すればいい筈だ。本当に、何が目的なんだ?


 並々と張られた水面を手で触れてみれば、確かな冷たさを感じられた。

 この感覚は、私がまだ目覚めたばかりの1人だった頃、川を初めて目撃した時の感覚に近いものがある。


 水、か………。

 ふむ…、とりあえず、入ってみるか。


 思えば、私がお湯ではない水に全身で浸かるのは、いつ以来だろうか?

 ルイーゼが発生させた雨雲を消し飛ばして以降、まったくなかったような気がする。なにせ必要が無かったからな。


 まだ私が魔術という言葉を知らない頃だ。あの時に水に浸かる事も可能ではあったのだが、まるで汚れる事が無かったのである。


 ゴドファンスに『我地也』を教えてもらってしまったからな。土器を作る必要が無くなってしまったのも汚れる機会が無かった理由の一つになるだろう。


 自分の家の近くに水場があったというのに、水に浸かると気持ちが良い事を知っていたにも関わらず、私は仲間ができた事が嬉しくて、すっかりその事が頭から抜けていたのだ。


 衣服を全て脱ぎ去り、全裸となる。脱いだ衣服は『収納』に仕舞えばいいだろう。

 風呂に入る時と同じ要領で浴槽に入れば、先程手に感じた水の冷たさが全身に伝わってきた。



 ああ…この心地良さ、ずっと忘れていたんだな…。


 風呂というものは確かに素晴らしいものだ。全身が温められて、私に快適な眠りを約束してくれる。

 それに対して、この水に浸かるという行為はどうだろうか?


 これはこれでとても心地いいのである。

 これはそう、風呂上がりに冷たいフルーツミルクを飲んだ時の快感に似ている。


 それに加えて、水に包まれる事で得られる小さな浮遊感だ。これはまるで、極上の冷たい布団にくるまったような感覚にも似ている。


 私としたことが、風呂の衝撃が強すぎて水に浸かる事の気持ちよさを忘れてしまっていたとはな。不覚にも程がある。

 この快感を思い出させてくれたクラークには感謝しておこう。


 水に浸かるのが心地いいのは分かったが、解せない事もある。


 この推定プールとやら、何故ここまで浴槽が巨大なのだ?

 プールの浴槽の広さは、風呂屋の浴槽に勝るとも劣らないほど巨大だったのだ。


 寝室が複数あるのは、先に考えた通り家族で利用する場合もあるので理解できる。だが、このプールとやら、間違いなく少人数で利用する施設の筈だぞ?ここまで巨大にする必要があったのか?


 いや、待てよ?少し考え直してみよう。

 そういえば、ファングダムの王城やジョゼットの屋敷の浴槽も、風呂屋の浴槽に勝るとも劣らないほどの大きさがあったな。

 やはり、これも贅沢、というヤツなのだろうか?


 そういえばこの部屋にも風呂がある筈だよな?『広域ウィディア探知サーチェクション』で確認してみよう。


 うん。やはり王侯貴族が利用するにふさわしい巨大な浴槽だ。決まりだな。

 つまり、このプールとやらは、非常に贅沢な水浴び用施設と考えて良いだろう。

 なんだったら、風呂で十分に温まった後にプールに入って急激に体を冷やしてみるのも良いかもしれない。


 風呂上がりのフルーツミルクが、あれだけの快感を与えてくれたのだ。お湯に入った後の水浴びもきっと気持ちがいいに違いない。

 今晩、風呂に入った後にでも試してみよう。



 部屋の確認も終え、時刻は午前11時。昼食の時間にはまだ少しある。

 折角なので、1階まで降りて売店を見て回ろう。多分だが、お土産も取り扱っているんじゃないだろうか?


 勿論、私が探すのはウルミラのためのお土産だ。

 あの娘のお土産だけ、まだ決まっていなかったからな。小型艇の形をした玩具でもあれば、きっと喜んでくれると思うのだが…。


 そんな事を考えながら、1階まで移動すると、私の姿を確認したクラークがすぐさま私の元まで駆け寄ってきた。


 「これはノア様、これからお出かけでしょうか?」

 「いや、この階層にある売店を覗いてみようと思ってね。ここの売店は、お土産を扱っていたりするのだろう?」

 「流石はノア様。お気づきでしたか」


 私の目的を伝え、予測した事をクラークに訊ねれば、彼は嬉しそうに頷きながら質問に答えてくれた。


 「はい。当ホテルの売店には、この街の特産品は勿論、当ホテルでしか購入できない限定品も揃えてあります」

 「この街の名物として、小型艇があったよね?小型艇の玩具なんて置いてたりする?」

 「おお!流石はノア様!お目が高い!勿論、取り扱っておりますよ!それも、当ホテルでなければ購入できない限定品も御座います!ささ、ご案内いたしましょう!」


 やった!思った通り小型艇の玩具が置いてあった!これでウルミラもガッカリさせずに済みそうだ。

 風呂に入る時に浮かべて遊んでいるウルミラの光景が、容易に目に浮かぶな。時間を忘れて遊び過ぎないように気を付けないと。



 紹介してもらった船の玩具は実に見事なものだった。


 「これは凄いね。簡易的とはいえ、魔術具で動く本物の船と原理が変わらないじゃないか」

 「その通りです!小型艇の技術だけで見れば、このアマーレの街の技術は世界一を誇ると言って差し支えないでしょう!部品の小型化を突き詰め、現在は片手で持ち上げられるほどのサイズにまで縮小可能となったのです!勿論、実際に動かして楽しむ事も出来ますよ!」


 本当に凄いな。このサイズ、私が作った立体模型の船のサイズよりも小さい。


 ん?このサイズ、もしかして…。


 「クラーク、もしかしてこの小型艇の玩具、マギモデルを乗せられる?」

 「!?!?」


 ふとした疑問をクラークに訊ねれば、彼は両目を見開いて驚愕していた。その組み合わせは、考えつかなかったようだ。


 「マ、マギモデルを、その玩具に、ですか…!?」

 「ちょうどいいサイズだと思うんだけど…。そもそも、マギモデルって、耐水性はあるのかな?」

 「それは、平均以上の品質ならば問題無い筈ですが…」


 あまりにも質が悪いと耐水性に問題が出るようだ。だが、私の質問をよそに、クラークは右手を顎に当てて小さく呟き続けている。

 思考を全力で回転させて、何かを思索しているようだ。


 クラークが自分の世界に入り浸ってしまったので、私は1人で気に入ったデザインの玩具を購入させてもらうとしよう。


 これで皆のお土産が揃った!


 後は昼食まで適当に売店で時間を潰し、午後からはアマーレの街並みを見て回るとしよう!

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