第273話 コーヒー
土壌の違いによる検証実験はすぐに行えないとはいえ、それでもジョゼットは私達が持って来た作物の種を栽培してみるとの事だ。
作物が魔物化する過程を確認出来れば儲けもの、と言う事らしい。
作物から変質した魔物の対応はどうするのかを聞いてみれば、実は変質したての魔物の力はそれほど強くないらしいので、屋敷に勤めている戦闘可能な使用人だけでどうとでもなると教えられた。
私にこの屋敷に泊まって欲しいと言われた時は変質した魔物の対応をしてもらいたいと言っていたのだが、どうやらそれは建前だったらしい。
作物が魔物に変質する現象は、その原因は勿論だが、そのタイミングもはっきりとは分かっていないのだ。
深夜に私を起こして対応を頼むつもりは最初からなかったらしい。
「ふふ、流石に『姫君』様の眠りを妨げるような不届きな真似は出来ないよ。それに、私も腐っても侯爵の身分だ。それなり以上の手練れを複数仕えさせているんだ」
「その手練れ達に交代制で栽培している作物を見張らせる、と言う事かな?」
「そういう事。私の本心としては貴女のような美しい存在を可能な限りこの眼に収めておきたいのさ」
遠慮が無いな。まぁ、その方が分かり易くて私としては好感が持てる。
それに、ジョゼットからは美しいものを見たいという欲望は感じられるが、それ以上の強い感情は感じられない。
邪な気配も特に見られないので、会話や食事に付き合うぐらい、全く問題無いのである。
ジョゼットは単純に美しいものが好きらしい。
そしてその美しいと判断する基準がどうも私と似通っているようだ。それは彼女が収集している美術品からもよく分かる。
最初にジョゼットの屋敷に訪れた時にも感じたが、彼女の屋敷に設置されている絵画や骨董品に装飾、調度品に至るまで、そのどれもが私好みの意匠だった。
さて、そんな共通の価値観を持つジョゼットだが、全てが全て同じ価値観を持っている、というわけではない。
彼女は私の事を生きた芸術だと褒め称えているが、私は自分の姿をそこまで美しいとは思っていないからな。
最近変化してしまった体毛や鱗の光沢なんかも、私にとっては派手過ぎる気がするしな。
いやまぁ、散々美しいだの美人だのと人間達から言われ続けているから、そういうものなのだろうとは思っているが、私自身が自覚を持てないのだ。
これは、私が読んだ小説でも似たような感性をもった主人公がいたので、それほど珍しい事ではないと思いたい。
自分で自分を美しいと思えるのは、一種の才能だと私は思う。
お茶会も終り、夕食までの時間、彼女の屋敷にある美術品を好きに鑑賞させてもらい、夕食が終わった後の事だ。
デザート共に、紅茶とは違った香ばしい香りが私の鼻孔をくすぐった。
いつもは食後のデザートに紅茶がついて来るのだが、今回は違う飲み物らしい。
お茶会の時に言っていた、ジョゼットが私に飲ませたい物だろうか?
どうやらそのようだ。この香りには覚えがあるらしいのか、オスカーがやや顔をしかめている。
この子は以前飲ませてもらった時に苦手だと言っていたから、多分私の予測は当たっているだろう。
デザートのチーズケーキなる菓子と共に、紅茶の時とそれほど変わらないカップが配られる。
香ばしい香りの正体の飲み物は、透明感が全く無い、やや茶色がかった黒い液体だった。
見た目だけだととてもではないが飲み物のようには見えないのだが、確かに香りは非常に良い。
ジョゼットもこの香りに惹かれたのだろうか?
「待たせたね。お茶会の時に行っていた飲み物。その名もコーヒーだ。きっと『姫君』様は気に入ると思うよ?なにせあのスリメン茶を飲めたのだからね」
「オスカーが苦手だと言っていたから少しだけ警戒していたのだけど、素晴らしい香りだね。読書をする時にでも嗅いでいたい香りだ」
「あの、ジョゼット様…?以前と同じなんですけど…?」
そう言えば、お茶会で話していた時はオスカーの分は、甘くまろやかにさせると言っていたな。
以前と同じと言う事は、今のままではオスカーにはあのコーヒーなる飲み物は飲み辛い、と言う事か。
「心配無用さ。このコーヒーという飲み物、紅茶と同じく砂糖やミルクと相性が良くてね。持って来させているから、好みに合わせて加えて飲むと良い」
「はぁ…」
なるほど。そういう飲み方ができるのか。
ちなみに、私は紅茶を飲む時は何も入れずにそのまま飲んでいる。
だが、そういった飲み方も出来る事は話に聞いていたし、本を通して知っていたから、特に違和感はない。
ならば、少々気になる事も出てくるな。
「ところで、このコーヒーという飲み物は、紅茶のように果汁を加えたり、果物の風味を加えて飲む事は出来るの?」
「ふむ…。無いことは無いとは思うけど、残念ながら私はあまり聞いたことがないね。私としてもあまり合うとは思えないから、試してみようとも思わない」
コーヒーが好きだというジョゼットでも合うとは思えないのか。なら、下手な冒険はしない方がいいだろうな。
それでは、早速一口いただくとしようか。
…これは良いな!確かに苦味と渋み、それに加えて独特の酸味がある飲み物ではあるが、決して不味いものではない!確かな旨味が感じられるのだ!
私が飲むところを興味深そうに眺めていたジョゼットからは、私がコーヒーを口にした瞬間に表情が変わった事に気付いたのだろう。
とても嬉しそうに語り掛けてくる。
「やはり!思った通りだ!どうだい?気に入っただろう?」
「ああ、この味、紅茶とはまた違った旨味がある。貴女の言う通りだ。これは優劣をつけるのは難しいね」
「そうだろう、そうだろう!このコーヒー、私が勝るとも劣らないと言った理由が分かるだろう!?」
分かるとも。そして奥が深いと言っていた理由も。
おそらくだが、このコーヒー。紅茶と同じく植物が原料になっているのだろうが、その植物の種類によって細かく味が変わってくると見た。
「このコーヒーという飲み物、元はどういう植物で、どうやって飲めるようにしているのか、教えてもらえる?」
「勿論だとも!」
訊ねてみれば、既に説明用に待機させていた使用人を指を鳴らす事でこの場に呼び出し、コーヒーの元となった植物を見せてくれた。
元となった植物は果物の一種だった。
この果物の種子を取り出し、焙煎と呼ばれる加熱処理を行った後、細かく砕き、そこに湯を流して抽出する事でカップに注がれたコーヒーとなるようだ。
カップに注がれたコーヒーを一度飲み干し、お代わりついでに抽出行程も見せてもらう事にした。
抽出には専用の器具と紙を使用するらしい。砕かれた豆がカップに落ちてしまわないようにするためのようだ。
ジョゼットが奥が深いと言っていた理由が分かってきたな。
このコーヒーという飲み物。おそらくだが、粉砕の仕方一つ取ってみても味が変わって来るんじゃないだろうか?
抽出行程なども味が変わる要因の筈だ。紅茶もそうだったからな。
「流石は『姫君』様。たったのこれだけでもうコーヒーが奥深い飲み物だと分かってしまったようだね?」
「驚いたよ。紅茶、というかお茶全般と似ているようで、このコーヒーという飲み物はまるで違う飲み物のようだ」
「その通り!そしてだね、更に驚くべき情報を教えよう。このコーヒー、産地によっても味が変わるのさ!」
…奥が深いなんてものじゃないだろうそれは。
つまりは、様々な産地のコーヒーを取り寄せ、それらを混ぜ合わせる事で自分好みの、自分だけのコーヒーを配合する事も可能だという事じゃないか。
「そうとも!そしてその自分だけの最高のコーヒーを求めて日々様々な組み合わせを試みる…。ふふふ、とても一人だけではできない事さ。人を雇える貴族で本当に良かったと思える瞬間さ」
「確かに。産地からして味が変わるのなら、貴族や高位冒険者でも無ければ、とてもではないけど楽しむ事ができなさそうだね。その辺りはやっぱり趣向品と言ったところだね」
こういった趣向品は、平民や中堅レベルの冒険者では恒常的に楽しむのは難しいだろうな。
海外の品というものは、それだけで価格が大陸内のものと比べて跳ね上がってしまうのだ。
魔大陸でコーヒーが栽培できない以上、コーヒーの種子(どういうわけかコーヒー豆と人間は呼んでいる)も手に入れようとするのならば、それなり以上の財力が必要になってくるのは明白である。産地で味が変わるのなら尚更の事だ。
「…これなら、僕も飲めそうです!」
「ふふふ、気に入ってくれたようで良かったよ」
コーヒーを苦手だと言っていたオスカーはと言えば、コーヒーにミルクと砂糖をたっぷりと入れ、すっかり明るい色となっている。
口にした時にとても可愛らしいにこやかな表情をしていたので、とても気に入ったのだろう。
折角なので、私も新しく注いでもらったコーヒーにはミルクと砂糖を入れてみる事にした。
だが、コーヒーにミルクを入れてみても、なかなかオスカーが口にしているような色にはならない。あの子は、一体どれほどの量のミルクを入れたのだろうか?
まだオスカーの飲んでいるコーヒーと同じ色にはなっていないが、一応口に含んでみる事にした。
…決して悪くはない。ジョゼットが言っていたようにまろやかな味わいになっている事は認めるが、コーヒーの苦みや渋みはほぼ無くなっていると言っていいな。
これでもオスカーは納得していないとなると、あの子が今ご機嫌に口に含んでいるコーヒーがどのような味になっているか気になるところだ。
とは言え、オスカーに私にもそのカップの中身を飲ませて欲しいなどというわけにはいかない。
なにせ人間達は口での接触を特別視しているからな。オリヴィエからさんざん言われた事だ。気を付けるとも。
後で聞いてみたら、砂糖の量はともかく、ミルクに関しては追加で用意してもらっていたらしい。それでは同じ物を再現できないのも当然だな。
基本的に、オスカーにはコーヒーが口に合わないらしい。
「しかし、これだけ素晴らしい植物も、魔大陸で栽培しようとすると魔物化してしまうというのは、残念でならないね」
「全くだ。魔大陸でもコーヒーが栽培できれば、非常に需要があると思うのだけどねぇ…」
産地によって味が変わるのだ。当然だろう。海外からも需要が出る筈だ。
ん?そういえば、魔大陸の作物も海外へ輸出しているのだったな?
では、魔大陸の作物を海外で栽培したらどうなるのだろうか?
ジョゼットに聞いてみたら、とても感心した声を上げていた。
「良い質問だね!良く気付いてくれた!実を言うと、魔大陸産の作物の栽培なのだけど、面白い事に大半の植物は魔大陸でなければ栽培できないのだよ!」
「やっぱり、考える事は皆一緒か」
輸入するほど需要のある作物ならば、自分の住まう場所で栽培できれば大儲けできるだろうからな。誰もが試そうとするだろう。
「海外で栽培を試みた者達は、当然のように大勢いたのだけどね、種子や株を植えて栽培しようとしたら、どれも枯れ果ててしまったのさ。しかも、植えた土壌の栄養素を軒並み奪った状態でね」
「それは惨いな…」
魔物化しないだけマシなのかもしれないが、土壌の栄養素が軒並み奪われてしまったら、その土壌では植物を育てられなくなってしまう。
被害の規模で考えたら、こっちの方が酷いだろう。
「世の中にはとんでもない事を思いつく人間もいてね。"楽園"産の果実を輸入して、その種子を育ててみようとした者がいたんだよ」
「…あまり良い判断とは思えないけど、どうなったか聞かせてもらえる?」
無茶な事をするものだ。人間の生活圏内の作物ですら土壌の栄養素を奪ってしまいながら枯れてしまうのだ。
より多くの魔力が満ちている"楽園"の作物が海外で育つとは到底思えない。
と言うか、"楽園"の作物は例え"浅部"の物であっても人間の生活圏内で栽培する事は不可能ではないだろうか?
それができているのなら、今頃わざわざ危険な"楽園"に足を踏み入れて採取活動を行わない筈だ。
私の質問に、ジョゼットは意地の悪い笑みを浮かべて答えてくれた。
「大災害も大災害だよ。種子を植えた土壌どころか、その人物の町全土が栄養素を失ってしまったよ。当然、種子も育たなかった。それ以降、魔大陸産の作物を自分達の大陸で栽培しようとする者は、一切いなくなったがね」
自分の土地のことながら、とんでもないな。
やるつもりは一切無いが、"楽園浅部"の作物でそんな結果になるなら、オーカムヅミの種子を人間達の国の中心に植えたら、それだけでその国を死の国に変えてしまうんじゃないだろうか?
やはり私達"楽園最奥"と人間達の生活圏は、文字通り住む世界が違うようだな。
オーカムヅミを人間に提供する時は、絶対に切り分けた小さな果肉だけを提供する事にしよう。
さて、デザートのチーズケーキも無くなり、コーヒーも十分に堪能した。
そろそろオスカーや冒険者達に稽古をつけ、今日の締めくくりとしよう。
明日はいよいよ美術コンテストの開催だ!
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