第11話
「なんなんだあの野郎は!」
カレンデュラの面々と別れてから帰宅する電車の中で、輝恭は胸の奥に燻ぶっていた余憤を吐き出した。つり革を掴む指はイライラとリズムを刻み、時々窓に反射する自身の顔は眉が吊り上がっている。誰がどう見ても不機嫌と分かる表情だ。近くに座る乗客たちは目を合わせようとしない。
「気持ちはちょっと分かるけど」と右に立つ菊司が同意してくる。つり革が頭にぶつかるらしく、微妙に背中を曲げて窮屈そうだ。「僕だってびっくりしたもん」
「ああいう話っつーのは普通事務所に通すだろ。なんで直接言ってきやがる」
念のためカフェを出てから掛巣に連絡してみたが、やはり柘榴や彼の事務所からライブ出演の打診はこちらに来ていなかった。さらに確認したところ、メンバーである初雪や玲央まで初耳というありさまだった。
要するに、柘榴の要望は完全に彼の独断なのだ。非常識だなんだと柘榴を責めたのだが、一瞬だけ反省の態度を見せたものの、最終的には「ご検討くださいね」と微笑まれてしまった。
「谷萩くんと初雪さん、すごく申し訳なさそうだったね」
「あの三人だとニチカが最年長なんだろ。ったく、しっかり手綱握っとけっつの」
初雪は店を出た途端に柘榴の後頭部を掴み、輝恭たちに向かって深々と頭を下げさせていた。その隣では玲央もくり返し頭を下げ、はたから見れば異様な光景だったことは間違いない。
ひとまずライブ出演に関しては、後日改めて事務所を通して送るという。受けるかどうか現時点では考えていない、というより、考えられなかった。まったく予想していない事態だったからだ。
ひとしきり文句を吐き出したところで、「でも良かった」と菊司が安堵したように呟いた。なにが、と問う代わりに視線を向けると、彼は控えめに輝恭のコートを摘まんでくる。
「初雪さんと仲直りできたんだね」
「別にそうでもねえよ」
初雪本人にも言った通り、彼の行動や言葉を完全に許したつもりはないし、許すつもりはない。
しかし。
「あいつがなに思ってたか分かったからな。前ほど怒ってるわけじゃねえし、これからのニチカを見てそのへんはまた考える」
「そっか」
「いつまでも引きずっててみっともねえとも思うしな。今はどっちかっつーと片目野郎に腹立ってるし」
あのにやけ面を思い浮かべるだけで青筋を立てそうになる。意識的に彼を頭の片隅に追いやって、次の停車駅で降りるべく前もって扉の前まで移動した。
「でももしライブにカレンデュラも出るんなら、色々予定変えないといけないね」
「場合によっちゃ開催日ずらさねぇといけねぇかも、か」
曲順は盛り上がる曲から涙を誘うものまでバランスよく組んだのだが、仮にカレンデュラが参加すればそれが崩れてしまう。いちからセットリストを編成し直す必要が出てくるのだ。
事前の会議やリハーサルもどれだけの日数がかかるか不明だ。結成記念日当日である五月五日にライブを行う予定で、今からプランを変更しても間に合わないことはないだろうけれど、急ぐあまり納得のいかないものが出来てしまっては困る。
幸い今回のライブ会場は事務所が専用で使っているライブハウスゆえに、日程変更は多少の無理が利く。ただ開催日をすでに発表しているため、変更が発生した場合はファンへの説明が欠かせない。
「くそ、もっと前から話つけてこいっつの。菊お前、片目野郎とずっと関わってたんだろ。ライブに出せとかなんとか聞いてなかったのかよ」
「さっきカフェで聞いたのが初めて。輝恭くんと初雪さんが仲直りするのを待ってたみたいだよね」
「そういやぁあいつ、霹靂神のファンだとか言ってやがった」
「そうなの?」
「どこまで本当か知らねえよ。ニチカからも『嘘にしか聞こえない』って言われてたのは笑ったけどな」
くくっと肩を揺らすと、菊司もくすくすと笑いをこぼす。
「なんだよ」
「ちょっとだけだけど、高校生の頃みたいだったなあって。初雪さんのこと話す時の輝恭くん見るのすごく久しぶりだし、なんだか嬉しい」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
車内に停車を知らせるアナウンスが流れた。電車は徐々に減速していき、周囲の客も続々と扉の周りに集まり始めた。
菊司とは降りる駅が違う。「じゃあまた明日」と声をかけるべく顔をあげたけれど、こちらが口を開くより先に「あの」と躊躇いがちにコートを引っ張られた。
「ちょっとだけ輝恭くんの家寄ってもいい?」
「あ? なんか用事か」
「うん。部屋に置いておきたいものがあって」
「じゃあついでに掃除手伝ってけ」
今日は丸一日休みで、本来なら今ごろ部屋の掃除をして読書を楽しんでいたはずだ。だいぶ予定が狂ってしまったが、真っすぐ帰れば掃除する時間くらい取れるだろう。二人でやればより早く済むはずだ。
許可されたのがよほど嬉しかったらしく、菊司の表情がまたたく間に晴れやかになる。駅のホームを踏んだ足音はとんっと軽く、胸を弾ませているのがよく分かった。
ふと彼がカフェで玲央と話していた時のことを思い出し、横顔を見上げる。
どんな会話があったか知らないが、菊司はずっと緊張していたように見えた。そもそも人見知りするのもあるが、今ほどの笑顔も少なかった。
幼馴染の自分だからこそ、これほどリラックスした表情を味わえるのか。
「あ、あの、輝恭くん」
不意に菊司が自身の顔を両手で覆い隠す。不可解な行動に輝恭は首を傾げた。
「なにやってんだ」
「こっちの台詞だよ! 急にじろじろ顔見てくるから」
「それくらいよくやってんだろ」
「そうだけど、なんか恥ずかしくて」
CDジャケットや雑誌の撮影では、互いの目を見るポーズを促されることがままある。至近距離で見つめ合うことなどよくあるし、今さら照れたような反応をされるとかえって戸惑った。
改札を出てもなお、菊司はずっと顔を赤らめたままだ。歩くペースも普段より遅く、輝恭はたびたび二、三歩先を進んでは立ち止まる羽目になった。
「お前さっきからおかしいぞ。なにもじもじしてんだ」
「しょうがないじゃん! 急に実感しちゃったんだもん!」
「はあ?」
要領を得ない解答に眉間をしかめると、彼は顔をうつむけて腰のあたりで指を組む。
「輝恭くんと恋人になったんだなあって、まだちょっと信じられなくて」
「夢なんじゃねえかってか」
告白を受けたのは二週間近く前だ。
あれから関係が発展したのかと言えば、微妙なところだ。仕事以外で連絡を取る回数は増えたかも知れない。と言っても菊司から「おはよう」とメッセージが来れば、輝恭も「おはよう」と返すだけの些細なものだ。
互いの家にももとから行き来していたために特別感はなく、変化した点を探す方が難しい。おかげで輝恭は、自分から発案しておいて恋人になったことを半ば忘れかけていた。
「ん」と輝恭は菊司に手を差しだした。「繋ぐか?」
「……いいの?」
「今までも何回か繋いだことあんだろ。子どもの頃とか」
幼少期の菊司は泣き虫で、幼稚園に行く時など母親と別れるのが寂しくてよく泣いていた。その時に慰めるのは輝恭の役目で、落ち着くまで手をつないでやったものだ。
だがどれだけ待っても菊司が触れてこない。顔を見やると先ほどまでの赤さはどこにもなく、寂しそうに目を伏せている。
「菊? どうした」
「ううん。なんでもない」
ゆるゆると首を横に振ると、控えめに手を伸ばしてきた。触れているのは小指だけで、これでは繋ぐというより引っかかっていると言った方がふさわしい。歩いているうちに外れてしまいそうなほど、緩やかな力のかけ方だ。
初めはひと目を気にしたからかと思った。まだ明るい時間帯で人通りも多く、そんな状況で手を繋ぐのは照れが勝っても不思議ではない。
結局、自宅に到着するまで手が重なることはなかった。
玄関に入ったところで指がほどけ、輝恭はコートを脱ぎつつ靴を脱ごうとした。その腕を菊司にやんわりと掴まれ、目を丸くしつつ顔を見上げる。
前髪の隙間からちらつく瞳は、やはりどこか悄然としていた。
「輝恭くん、キスしていい?」
「あ? なんで」
「嫌ならしない」
「嫌とは言ってねえだろ」
告白されてから最初に口づけたのは輝恭だったし、抵抗感が無いのはあの時に自覚している。「なんで」と問うたのは、なぜわざわざ聞くのかと疑問だったからだ。
答えても菊司はなかなか動かない。次第にじれったさといら立ちが芽生え、輝恭は掴まれた側の腕を引いて菊司を無理やり近づけた。予想だにしていなかったのか彼は大きくぐらつき、倒れかかってきたところを胸で受け止める。
「したいんだろ。なら早くやれ」
「……分かった。ちょっとでも気持ち悪かったら、突き飛ばしたりしていいから」
「やけに念押しするじゃねえか」
「だって輝恭くんが分かって無さそうだから」
「分かってないってなにを――――ん」
するりと頬を両手で包みこまれ、唇に柔らかな感触が触れる。
相変わらず菊司の手は冷たい。反射的に肩が震えて小さく息をのんだ刹那、ぬるりとしたなにかに唇の表面をなぞられた。
舌だと理解するのに時間はかからなかった。はっと目を丸くすれば、間近にあった彼の瞳と視線がぶつかる。
――いつもと違う。
へにゃりと笑っている時とも、アイドルとしてステージに立っている時とも違う。
輝恭の反応をうかがうような眼差しは、これまでに感じたことのない熱を帯びていた。
「菊、ちょ、」
「そのまま口、開けてて」
「は、っ」
言葉を紡ぐ隙を与えまいとするように、菊司に素早く制される。その直後、彼の舌に歯列をなぞられた。
菊司はさらに口内へと侵入して、輝恭の息を奪ってしまう。あえかな声がこぼれた瞬間、自分のものとは思えないそれにかあっと耳が熱くなり、玄関の扉や壁にかすかに反響する水音が羞恥心に拍車をかけた。
どれだけ貪られていただろう。ようやく解放された頃には頭がぼんやりとして脚に上手く力が入らず、それを察した菊司に体を支えられた。
「ねえ輝恭くん」と彼の指が目尻に触れる。「これで分かった?」
「なに、が」
「手繋ぐのも、キスするのも、子どもがするみたいなのとは違うんだよ」
荒い息を整えながら、はっと菊司を見上げる。
「僕は友だちとか、幼馴染の延長線上で輝恭くんが好きなんじゃない。輝恭くんが聞いたんだよ、『恋愛対象なのか』って。僕、そうだって言ったよね」
「……言ったな」
「だったらもっと、そのへんちゃんと理解して。恋人として付き合おうって提案してくれたのも輝恭くんなんだよ。ずっと幼馴染だったんだし、急に関係性が変わってうまく意識が切りかえられてないのは分かるけど、このままはちょっと嫌だ」
「……悪かった」
分かってくれたならいい、と菊司が背中を何度も撫でさすってくる。
彼が長年抱き、ひた隠してきた想いはきっと、輝恭が思うより大きいのだろう。先ほど感じた熱はきっと片鱗でしかない。
あの眼差しもまた、自分しか味わえないものなのだ。
実感したとたん、背筋に痺れに似たなにかが走る。優越感か、あるいは満足感か。正体を探ろうとした矢先に、頭上からため息が降ってきた。
「こんなとこで急にごめん。部屋にあがってからすれば良かった」
よほど反省しているらしく、菊司の声には覇気がない。先ほどの強気な態度はどこへ行ったのかと、落差におかしさがこみ上げた。
「それだけ我慢出来なかったんだろ」
「ほんとごめん」
「いや、いい。お互いさまだ。そういや部屋に置くもんあるって言ってたよな。なに持ってきたんだ?」
「あー、えっと……その……」
す、と菊司の片手が背中から腰へ、腰からさらに下へとずれていく。
「この際だから白状しちゃうけど、僕ね、輝恭くんのこと抱きたくて」
「抱っ……は?」
「いつか使うことになるかも知れないから、一応そういう時に必要なもの準備してきたの。備えあれば患いなしって言うでしょ」
もう片方の手で脇腹を撫でながら、菊司は輝恭の目を覗いて「引いた?」と心配そうに訊ねてくる。
言葉で返そうとして、輝恭は彼の後頭部に手を回して強引に引き寄せた。そのまま噛みつくように口づけてから、瞠目する菊司の耳元で「悪くねえ」と挑発的に囁いた。
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