第9話

 脳裏にふと今年の誕生日の記憶がよみがえる。

 寝落ちした菊司を部屋に連れて行った際もこうして抱きつかれた。解放されないまま眠る間際に、耳元で囁かれたのだ。

 ――きーくん、すき。

 あの時は完全に寝言だったけれど、先ほどの一言はそうではないだろう。

 輝恭に拒まれるのを恐れているのか、菊司はしばらく黙って微動だにしなかった。このままでは埒が明かない。穏やかに軽く腕を叩いて、無言で言葉の先を促した。

「……子どもの頃からほぼ毎日、一緒にいるでしょ。いくら幼馴染でもべったりしすぎだって思わなかった?」

「いや、別に」

 世の中にはごまんと〝幼馴染〟が存在する。関係性も星の数ほどあるはずだ。輝恭にとって幼馴染は菊司しかいないため比較対象も無く、距離感に疑問を持ったことはなかった。

「で? ずっと俺を見てきたから、なんだ?」

「……輝恭くんて、あんまり友だちいないよね」

「あ?」

 急に喧嘩を売られて反射的に威嚇したが、図星だったがゆえに言い返せず、輝恭は仏頂面で唇をへの字に曲げた。

 指摘された通り、確かに友だちはいない。顔が怖いだの、偉そうだのと同級生には敬遠されがちだったからだ。決して仲間の輪から外されていたわけではないが、すすんで話しかけられはしなかった。

 恐れることなく近寄ってくるのは、高校に入学するまでは菊司くらいだった。

「だから輝恭くんにとって初めての友だちって、初雪さんだったんじゃない?」

「まあ、多分。癪だけど。それがどうした」

 いまいち話のつながりが分からず、輝恭はため息まじりに問いかけた。

「初雪さんと喋ってる時の輝恭くん、すごく楽しそうだったんだよ」

 ふっと耳元を息が掠めていく。恐らくよく見るへにゃりとした笑みを浮かべているのだろう。

「僕が見たことない――僕じゃ見られない、楽しそうな顔してた」

「そうかぁ?」

「うん。最初に初雪さんのこと聞いた時にはカッとなっちゃったけど、でもいざ会ってみたら分かった。輝恭くんも初雪さんも、本当に楽しそうで」

 だから、と菊司の声が切ない響きを帯びる。

「僕はただ、二人に仲直りしてほしいだけなの」

「…………」

「初雪さんと一緒にいたいわけじゃない。輝恭くんと初雪さんが楽しそうに笑いあってるのを、また見たい」

「それニチカにも言ったのか」

 頬に菊司の黒髪が擦れて、首を横に振ったのが分かった。詳しく聞けば、初雪にそれを伝える前に輝恭がファミレスに現れたため、結局ろくな会話は出来なかったらしい。

 菊司の願いは分かった。だが受け入れられるかどうかは別だ。

「あいつがなんで抜けたのか、菊も知ってんだろ。俺の隣にいたくねえって抜けたんだぞ。戻ってくるわけねえだろ」

「そのことなんだけど、初雪さんがちょっとだけ詳しく教えてくれたよ」

「なにを」

「輝恭くんの才能を間近で見るのが耐えられなかった――って言ってた」

「はあ?」

 なんだそれは。思わず振り返って菊司を見ると、彼は困ったように笑う。

 ファミレスでその件に関して追及したのは、片目野郎もとい柘榴だったそうだ。玲央が初雪の霹靂神脱退理由について明るくなく、事情を把握させるためだったのかもしれない。

「『眩しすぎたんだ』って」

「なにが」

「初雪さんから見た輝恭くんが。『絶対的な自信を持ってて、注目を浴びれば浴びるほど活き活きする。追いつこうと努力してもテルヤスの才能はそれを上回る。俺はこいつみたいになれないんじゃないかって思ったら、もう無理だった』から――」

 逃げるようにして霹靂神を抜けた。

 事情は分かったが、だからといって初雪を許せるわけではない。勝手に打ちのめされたのは向こうなのに、どこか自分が悪く言われている気がして余計に腹が立つ。むかむかと腹の奥で怒りが芽生えるが、菊司に鬱憤をぶつけるのはお門違いだ。

 どうにか憤懣をやり過ごそうとしたところで、「あと」と菊司が言葉を続けた。

「『羨ましかった、嫉妬してたんだ』とも言ってたよ」

「嫉妬だぁ?」

「輝恭くんにはアイドルとしての才能があるんだって。歌やダンスももちろんだけど、注目を浴びる力とか、ファンの皆を楽しませたりとか」

「あいつだってそれくらい出来てたろ」

「少なくとも僕よりは」と菊司が苦笑する。「でも心のどこかで輝恭くんには敵わないって思ってたんじゃないかな」

 ファンの応援は誕生日のプレゼントや、日々事務所に届くファンレターなど目に見える形でも表れる。誰宛だとか、数を気にしたことはなかったが、初雪はその点で敏感だったようだ。

「だから、さ。とりあえず一回だけでもいいから、初雪さんとちゃんと話し合おうよ」

「話し合って、霹靂神に戻って来いって俺に言わせんのか。あのなあ、さっきも言ったろ。あいつはもう別のユニット組んでんだぞ」

「それは、分かってるけど」

 菊司はあからさまにしょんぼりと項垂れる。ぐすんと洟まですするありさまだ。弱い者いじめをしている心地になり、輝恭はがしがしと己の頭を掻いた。

「……一回だけだぞ」

「!」

「ちょっと話す程度ならやってやる。話すだけだ。そっから先はニチカ次第で考える」

「本当? 本当に?」

「しつけえな。決めた以上は曲げねえよ」

 初めこそ菊司は不安そうな顔をしていたが、きっぱりと言い切れば一転して嬉しそうに歯を見せて笑った。

 不意にどこからかポコンと可愛らしい音が鳴る。メッセージアプリの着信音だ。

「僕のだ」と菊司が立ち上がり、リビングまで小走りで戻っていく。出て行かせるつもりが荷物を持たせていなかったことに今さら気がつき、怒りがどれだけ判断力を鈍らせるのか思い知った。

 遅れて戻れば、菊司に「輝恭くん!」と叫ばれた。あまりの大きさに耳がキンと痛み、人差し指を何度も下に向けてボリュームを落とすよう促した。

「なんだよ」

「初雪さんから連絡きた」

 興奮まじりに画面を見せられ、輝恭は一歩下がってから目を通した。

「『柘榴がお前と話をしたいらしい。連絡先を教えておく』……? なんで片目野郎が菊と話してえんだよ」

「僕が初雪さんと歌いたいって言ったことについてじゃないかな。カレンデュラのリーダーはあの子だし。とりあえずあとで連絡してみる」

「そうしとけ。……で、だ」

 輝恭は菊司の肩を押さえつけ、無理やり座布団の上に座らせた。力を込めたせいで、先ほど噛まれた箇所がじくりと痛む。

 明かりを遮るように菊司の前に立ち、その顔を見下ろす。怒っていると勘違いしたのか、彼は「ひぇ」と喉を震わせた。

「お前にはまだ聞きてえことあんだぞ」

「え、えっと」

「好きっつーのは、どういう意味での好きだ」

 自分がなにを口走ったのか忘れていたわけではないだろうに、菊司の頬が次第に赤くなっていく。前髪に覆われた下の目は面白いくらいに泳いでいることだろう。

 輝恭は彼の前にしゃがみこみ、前髪の下に手を差しこんでさらりと上げた。一気に視界が明るくなって余計に羞恥心が膨らんだのか、菊司が全く目を合わせない。

「き、聞かなかったことに」

「寝言でも聞かされといて、聞かなかったふりなんざ出来るわけねえだろうが」

「寝言!」

 やはりというか当然というか、自覚はなかったようだ。あまりの狼狽えように愉快さがこみ上げ、くっくっと笑ってしまう。

 深呼吸して落ち着かせたところで、菊司は気恥ずかしそうに俯いた。

「友だちとか家族みてえなもんだとか、そういう意味での好きじゃねえんだろ」

「……はい」

「つまり恋愛対象ってことか」

「……そうです」

「ふうん」

「……ごめん」

「なんで謝る」

「だ、だって、その、嫌じゃないの?」

 次の瞬間には拒まれるかもしれない。今までの関係が崩れ去るかもしれない。胸のうちに渦巻く不安が大きくなる一方なのか、菊司の瞳に涙が溜まっていく。それがこぼれてしまう前に、輝恭はぐいっと頬を両側から引っ張った。

「いたたたた!」

「ビビってんじゃねえよ。嫌だとか思ってたらそもそも言われた時点で追い出してるっつの。何年一緒にいると思ってやがる」

「わ、分かっひゃ。分かっひゃから、いたたたた」

 痛みで涙も引っこんだのか、ぱっと手を離せば菊司は赤く腫れた頬を自分の両手で冷やす。恨みがまし気な視線を受け流して、輝恭はため息に似た微笑みをこぼした。

「いつだ。いつから俺のこと好きだったんだ」

「分かんない……気がついたら好きだったし。小学校の高学年の頃は確実かな」

「だいぶ早ぇな」

 少なくとも十年以上は想い続けていたということだ。ほぼ毎日隣にいるのに、一切悟らせずに。

 そこまで考えて、いや、と輝恭は痛む箇所を手で覆った。

 初めてここを噛まれた時は、初めての友に等しい初雪について語った日だ。あの時は「輝恭くんには僕がいる」と分かるようにしておくために噛んだと言われたような。

 もしかしなくとも、あれはある種の独占欲だったのではないか。何度となく噛まれてきたけれど、一度も嫌悪感を覚えたこともない。

 輝恭は再び菊司の頬に手を伸ばした。また引っ張られることを警戒したのか、菊司がぎゅっと目をつぶる。

 その隙に顔を寄せ、唇に触れるだけのキスを落としてやった。

「…………え?」

「んだよ」

「今なにした?」

「言われたことに答えただけだ」

「……冗談?」

「冗談でするわけねえだろ」

 現実か自分の想像か判断がつかないようで、菊司が忙しない瞬きをくり返す。

 輝恭は菊司の顎を指先ですくい、もう一度、今度は頬を掠めるように口づけた。現実だと思い知らせるべくわざと音を立ててやれば、菊司の耳と首が真っ赤に染まった。

「な、なな、なに」

「これで分かったろ」

「分かったけど分かんないよ! 答えって、なに、どういうこと。え?」

「少なくとも俺は菊が嫌いじゃねえってことだ」

「え、えっ」

 告白してきたのは菊司なのに、なぜ向こうの方が動揺しているのか。受け入れられると想定しなかったらしく、今度は自分で頬をつねりだした。

 ――これ見て可愛いと思えるくらいには、俺もこいつのこと好きっぽいな。

 果たしてこれが友愛の延長線上なのか、あるいは菊司と同じ種類の感情なのかは分からない。

「なあ、菊」輝恭は菊司の指を取り、軽く握りこんだ。「お前と同じ〝好き〟か、正直自信はねえ。けど嫌いじゃねえし、手放したくねえとも思う。だから」

「……うん」

「付き合うか? 恋人として」

「……うん」

 こく、こく、と噛みしめるようにうなずいて、菊司が腕を伸ばしてくる。ふわりと抱きしめる力は柔らかく、輝恭も彼の背中に腕を回して撫でてやった。

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