第8話
音に反応した客たちがいっせいにこちらを向く。ろくに変装していないが、照明がガラスに反射して顔が判別しにくいのか、これと言って騒ぎは起こらない。
菊司は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして硬直している。玲央の顔は哀れなほどに青ざめ、初雪も警戒をあらわに見つめてくる。
ただ一人、柘榴だけは平然と輝恭を一瞥したきり、メニュー表を片手に呼び出しボタンを押していた。
店内に入ることも考えたが、大人げなく声を荒らげる気しかしなかったため自制した。輝恭はゆるゆると腕を下ろし、コートのポケットに手を突っこんでファミレスに背を向ける。
――くそ。殴りつけたとこが痛え。
冬の寒気に晒されていた窓ガラスは氷のごとく冷たかった。おかげで頭もすぐに冷静さを取り戻したけれど、殴打した箇所の痛みをじわじわと自覚する。
「待って輝恭くん!」
背後から菊司の声が聞こえた。食事会を切り上げて追いかけてきたのか。輝恭は振り返りもせず、立ち止まりもせず歩き続ける。
彼がようやく追いついたのは、地下鉄のホームに立った時だった。上着のボタンは留められておらず、急いで走ってきたことがうかがえる。
「輝恭くん、あの」
「…………」
「……ごめん」
「言い訳なら明日聞いてやる」
「やだ」と菊司が首を横に振る。「お願い、いま説明させて」
懇願するように俯いて、輝恭の服の袖を摘まんできた。その指を手で払いのけ、ホームに入ってきた電車を見るともなしに眺めて答えを返さない。
そのまま輝恭が借りているマンションに到着するまで、どちらも一言も話さなかった。玄関を開けて中に入ったが、絶えず一歩後ろをついてきた菊司は共用通路に佇んでいる。入っていいものか躊躇しているらしい。
「いつまで突っ立ってやがる」
「……話、聞いてくれるの」
「さあな」
放置すれば朝までこのまま立ち尽くされそうだ。他の住人から不審がられる上に、菊司も風邪を引きかねない。さっさと入れ、と視線で促した。
いったん自室に荷物と上着を置いてリビングに行くと、菊司が座布団も敷かず床に直接正座していた。輝恭が対面に腰を下ろせば、おずおずと目を合わせてくる。
「……ごめん」
「さっきも聞いたな。なにに対して謝ってんだ」
「初雪さんたちに会いに行ったこと」
「別に。お前の交友関係に口突っこんだりしねえよ。勝手にすりゃいい」
「でもすごく怒ってた、というか怒ってる、よね」
さすが幼馴染だけあって鋭く察している。輝恭は舌打ちをこぼして腕を組んだ。
「俺が腹立ってんのは、裏でこそこそあいつとやり取り続けてたのかよってとこだ。まあ別に連絡すんなとも言ってなかったけど」
「ち、違う。初雪さん本人とは二年前から連絡取りあってなかった」
「本人とは、な。そういやさっきの飯は片目野郎に呼ばれて行ったらしいじゃねえか」
なぜそれを、と言いたげに菊司が前髪の奥で目を丸くした。だがすぐに掛巣が情報源だと思いいたったらしく、がっくりとあからさまに肩を落とす。
「で? 説明させろっつったよな。なにを?」
「……初雪さんと話がしたいって、僕が千両くんにお願いしたの」
ひくっと口の端が引きつる。
柘榴から呼びだされたわけではなく、菊司自身が再会の場を設けるよう頼んだのか。
しかし菊司と柘榴が顔見知りである認識はない。輝恭が彼を見かけたのは今日のスタジオが初めてだし、てっきり菊司もそうだと思っていたけれど。
「二年くらい前に受けたミュージカルのオーディションで初めて会ったんだ。その時に『初雪さんの連絡先教えてくれませんか』って話しかけられて……」
それ以降も時おりオーディションや撮影で一緒になるたび、主に向こうから話しかけてきたらしい。どうせなら電話番号なり連絡先を交換すべきかと提案したが、なぜか断られたために対面で話すことがほとんどだったそうだ。
「ずいぶん気ぃ合ったんだな」
「気が合ったっていうか、僕が色々相談してたみたいな」
「なにを」
「……輝恭くんと、初雪さんと、また三人で霹靂神として歌いたいって」
しんと静まり返ったリビングに、無機質な時計の秒針の音だけが満ちる。
数秒間黙りこんだのちに、は、と輝恭は眉根を寄せて鼻で笑った。
「ニチカにもそれ言ったのかよ」
「うん。ちゃんとした返事は聞けてないけど」
「どうせ『無理だ』に決まってる」
たとえどれだけ復帰を願ったとしても、初雪は首を縦に振らないだろう。輝恭の予想はほぼ確信だった。
脱退の直前、彼は輝恭たち――というより、輝恭に対して言ったのだ。
『俺はもう、テルヤスの隣にいたくない』
どういう意味か問いただしても、初雪はそれ以上なにも言わなかった。言ったところで分からないと思われていたのか、口を割らなかった理由は今でも分からない。
ただ、この一言が二人の間に溝を生む原因となったのは確かで、軽口の言い合いで済まない口げんかも増えた。ほどなくして初雪は霹靂神を抜け、輝恭のもとには彼のピアスだけが残っている。
「戻ってこいっていくら言ったところで、あいつはうなずかねえよ。だいいち別のユニット組んでんだぞ。だったら尚更だ。ニチカが復帰する未来はあり得ねえ」
「でも! 僕はどうしても、せめて一回だけでもいいから、また三人でステージに立ちたいよ」
太ももの上に置いた拳を強く握り、菊司は思いのほか強い口調で訴えてくる。
それだけ尊敬しているということか。そう考えると、胸の奥底でもやもやとしたものが巻き起こる。その正体がなんなのか分からないまま、輝恭はなんとなく胸を擦った。
「そんなにニチカといたいのかよ」
「…………」
菊司はゆっくり深くうなずいた。
「だったらあいつのとこ行きゃいい」
「……え」
「菊はニチカとステージに立ちたいんだろ。けど俺はお断りだ。なら方法は一つしかねえ」
「待って。やだ」
あえて満面の笑みを浮かべてみせれば、菊司は慌てたように首を激しく横に振る。
「お前もカレンデュラに行きゃいい。それで万事解決だ」
「っ……! そんな、だとしたら、輝恭くんは、霹靂神はどうするの」
「一人でやるだけの話だ。なんの文句がある」
「あるに決まってるよ、ダメだよそんなの!」
子どもが駄々をこねるがごとく、菊司が涙声を荒らげる。輝恭は聞かなかった振りをして立ち上がり、ひたひたと廊下を進んだ。そのまま玄関前で立ち止まると、追いかけてきた菊司も足を止める。
先ほどかけたばかりの鍵を開け、じっと菊司を見た。そのまま無言で扉を親指で示す。「出て行け」と言葉にしないのは輝恭なりの優しさだ。
だが菊司は動かない。素直に従ってしまえば、その時点で霹靂神は解散してしまうと悟ったらしい。
「店戻ったらまだあいつらいるかも知れねえぞ」
「……行かない。戻らない」
「片目野郎とは気が合うんだろ。だったらカレンデュラに入れてくれって言ったらうなずいてくれるんじゃねえの。良かったな、これでニチカとまた歌えるぞ」
「違う。違うよ、輝恭くん」
「ごちゃごちゃうるせえよ。――じゃあな」
二十数年の仲であろうと、終わらせてしまうのは簡単だ。冷徹に、無慈悲に突き放してしまえばいい。
心が痛まないと言えば嘘になる。過去のどんな場面でも、隣には必ずと言っていいほど菊司がいた。本当の兄弟のように慕ってくれるのが嬉しくて、これから先も互いに支え合って行けると思っていたのに。
毎年、誕生日に噛まれていた箇所が疼く。痕はなく痛みもないはずなのに、不思議とそこが熱を持っている気がして唇を噛んだ。
菊司の横を通り抜け、歩き出す手伝いをするように顔を見ず軽く肩を押してやる。
その直後、強い力で腕を引かれて輝恭の体が大きく傾いた。
「っ!」
菊司に後ろから抱きつかれたのだ。かと思うと、チョーカーと服の間からわずかに見えていた肌に思いきり歯を立てられて息をのむ。
いつもと違って容赦のない嚙み方だ。悲鳴にも似たうめき声を漏らして、輝恭は体の前に回された菊司の腕を引っかいた。
「菊てめっ、なにっ……! いっ……!」
「輝恭くんがなんにも分かってないからだよ!」
間近から告げられた悲痛な叫びに、輝恭は目を丸くした。
「お願い」と菊司の頭が肩に乗る。「追い出そうとしないで。僕の話、ちゃんと聞いて」
抵抗を堪えた腕がかたかたと小刻みに震えていた。菊司は輝恭を拘束したまま、ずるずるとその場に座りこむ。
脱力したように思えるのに、抜け出すべく身じろぎすればするほど、しがみつく力が強められる。唾液で濡れたままの肩の痛みも相まって、輝恭は大人しく彼の胸に背中を預けた。
「あのね、僕ずっと輝恭くんのこと見てきたよ」
ぽつぽつと語りだした声はゆったりと温かみがあり、言い聞かせるような響きがある。
「物心つく前から今日までずっと、輝恭くんを近くで見てきた」
「まあそりゃ、幼馴染だからな」
「そうだけど、それだけじゃなくて」
ぎゅう、と腕の力が強くなる。少しでも落ち着かせてやろうと、輝恭は子どもをあやすように菊司の頭を撫でた。
言葉が出てこないのか、なにか言おうとしてはつぐむ様子が耳元から伝わってくる。
やがて意を決したようで、菊司が大きく息を吸った。
「……き、だから……」
「あ?」
「輝恭くんのことが、好きだから」
想定外の一言に、輝恭はろくな反応も出来ずに固まった。
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