第7話

 先に話しかけてきたのは向こうだった。

『君の名前「キキョウ」って読むんだな』

 入学早々の自己紹介や学校生活の抱負などを語ったホームルームのあと、隣の席にいた彼はクラスの生徒一覧が書かれたプリントと輝恭を見比べながらそう言った。

『てっきり「テルヤス」って読むのかと』

『あ? ふざけんな。んなわけねえだろ』

『「んなわけねえ」ことないと思うが。世の中には漢字が同じでも読みが違うってわりとあふれてるだろ』

『知ったこっちゃねえ』

 いきなり絡んできたこいつは誰だ、と輝恭もプリントで何者か確認する。確か先ほどの時間に「丹和初雪」と名乗っていたはずだ。特別珍しい名前とは思わなかったが、名字の字面をつい最近どこかで見た気がした。

 そうだ、先日古本屋で手に取った漫画に同じ名前のキャラクターがいた。けれど読みが「にわ」とは異なったような覚えがある。

『せっかくだしテルヤスくんって呼んでもいいか?』

『せっかくもくそもあるか。だせえ呼び方してんじゃねえ』

 威圧的な態度を取っているにもかかわらず、初雪は意に介した様子もなくくすくすと笑っている。からかって面白がっているのかと思うと腹が立ったが、同時に珍しくもあった。

 小学校の頃からずっと「口調がきつい」「目つきが鋭くて怖い」と同級生や下級生に怖がられることがほとんどだったからだ。寄ってくるのは幼馴染の菊司くらいで、友だちらしい友だちが出来たことはない。

 これまでの同級生たちとは明らかに違う。確かにそう感じた。

『だったら』と輝恭は頬杖をつき、ふふんと笑いながら反撃に出る。『俺もお前のこと「ニチカ」って呼んでやるからな』

『? どこからそんな読み方出てきたんだ』

『うるせえな。この前チラ見した漫画に〝丹和にちか〟って奴がいたんだよ』

『へえ。どんな漫画だ?』

 興味を持たれても、買わずに棚に戻したためあらすじは知らない。

 それならば、と初雪に誘われて、その日の放課後には二人で古本屋に足を運んでいた。目当ての本を手に取って二人でのぞき合い、他にも各々が好きな漫画を進めあったりしたものだ。

 翌日からも初雪は輝恭を「テルヤス」と呼び続けてきたし、輝恭も「ニチカ」と呼び続けた。部活もたまたまそろって茶道部に入ったこともあり、仲が縮まるのに時間はかからなかった。

『役者になりたいんだ』

 いつかの昼休み、中庭で弁当をつつきながら初雪は照れくさそうに言った。

『昔からドラマとか舞台とか、母さんと一緒によく見てたんだ。そしたら同じ俳優でも違う役をやったら別人みたいになったり、同じ役でも演じる俳優が変われば違う味が出たりして、なんだか面白いなって憧れたんだ』

『だからここの高校入ったのか』

『演技の基本も学べそうだったし。テルヤスは? なんで芸能科にしたんだ』

『アイドルになるため』

 かつて菊司に語ったときほど詳細には教えず、簡潔にそれだけ述べる。親しくなってきたとはいえ、なにもかも話してやるほどではない。

 初雪も「そうか」とあっさりした反応を返す。

 互いに必要以上は踏みこまない。それが二人の暗黙の了解だった。

 ――いや、菊に噛まれたのを隠してた時だけ突っこまれた気がする。

〝ホリデイ〟の衣装から私服に着替えて、輝恭はテレビ局の近くにある蕎麦屋に入っていた。注文したとろろ蕎麦を待っている間、ふと高校の頃を思い出してつい顔をしかめてしまう。

 菊司に噛まれた痕は二、三日消えず、そのあいだ湿布を貼って隠していた。初雪に「そんなに痛めたのか?」と聞かれたのは三日目だったか。

 ――ダンスの練習しててやらかしたって誤魔化した気がすんな。

「お待たせしましたー」と店員が蕎麦のどんぶりを輝恭の前に置く。いただきます、と小さく唱えてから割り箸を割った。とろろの上には温泉たまごが乗り、軽く押すとわずかな裂け目から黄身が流れ出る。

 店内にはテレビが設置されていた。チャンネルは奇しくも〝ホリデイ〟を放送していた局で、しかし番組はすでに終わり、現在は報道番組が流れていた。菊司もそろそろテレビ局を出ているだろう。

 だがスマホに特に連絡は来ていない。何度か確認してみたが、これといった通知はなかった。

 ――あいつまさか、ニチカに会いに行ってんじゃねえだろうな。

 可能性としてなくはない。菊司は初雪によく懐いていたからだ。

 菊司が入学していよいよ霹靂神の結成に至ったのだが、初雪も加えようと言い出したのは菊司だった。

『はあ? なんでだよ』

『だ、だって、楽しそうかなって思って。それに初雪さん、良い人だし』

 顔を合わせるまで初雪を警戒していた菊司だが、茶道部に入ると先輩部員である初雪がよく声をかけたためにすっかり打ち解けた。昼休みも、輝恭と初雪が中庭にいるところに菊司が合流し、三人で話す頻度も自然と増えていった。

 確かに初雪とは気が合う。軽口も言い合えるし、趣味は異なるがそのぶん知らない分野に触れられて楽しい。

 しかし、だ。ユニットを組むとなると別である。

『ユニットを組むなら菊がいいって何回言やぁ分かる。いくらダチとはいえ、ニチカを加えるつもりはねえぞ』

 部活で使った道具を片付けながら、輝恭は眉を吊り上げた。

『でも初雪さん、歌上手いみたいだよ。この前カラオケ行ったとき、ほとんど九十点越えたって』

『知らねえよ。いいか、俺は菊としかやるつもりねえ。そもそもニチカに話してたところで、あいつが断るかもしれねえだろ』

『呼んだか?』

 部室の掃除を終えたらしく、初雪が箒を片手に声をかけてきた。

 他の部員はすでにいない。残っているのは輝恭たちだけだ。

『初雪先輩。なにか歌ってくれませんか?』

 菊司の突然の要求に、初雪は「え?」と面食らっていた。

『おい菊』

『いいでしょ、ちょっとだけ。実際に聞いたら考えが変わるかも』

『んなこと言ったってな……』

『よく分からんが、歌えばいいのか?』

 ――結局あいつ、なに歌ったんだっけな。

 とろろと黄身をそばに絡めて、勢いよくずるずるとすする。

 あの時、初雪は歌を要求された状況はさておいて、輝恭が知らない曲を歌い上げた。確か外国のアニメーション映画の主題歌だと菊司に説明された。

 確かに歌唱力は悪くなく、かすれ気味の低い声はある種の味としても捉えられる。高い音も難なく当てていたし、安定感は抜群だった。

 その後も菊司に説得を重ねられ、初雪の実力を目の前で確認したこともあり、輝恭は霹靂神に彼を加えたのだ。しばらくは「本当にいいのか?」とユニット結成に巻きこまれたことに困惑した様子だったけれど、デビューの頃には堂々とメンバーの一人として稲妻型のピアスを揺らしていた。

 先ほどの番組でも、当時と変わらない、いや、当時より成長した歌声を響かせていたのだろうか。

 蕎麦をすする手が止まり、どうでもいいことを考えるなと頭を振った。

 無心で完食し、改めてスマホを確認する。やはり菊司から連絡はない。

 ――まあ別に、一緒に帰るって約束してるわけじゃねえけど。

 ――なんとなく学生の頃からの習慣みたいになってるだけで。

 年齢が上がり個人の仕事も増えるにつれ、菊司とは以前ほど行動を共にしなくなった。それでも帰宅時間が被る場合はたいてい菊司から連絡が来て待ち合わせ、どちらかのマンションの近くまで並んで帰ることが多い。

 もしかすると輝恭が先に帰ったと思っている可能性がある。菊司がスタジオの観覧を終えた頃、輝恭はすでに楽屋を出ていたからだ。だとすれば連絡が無いのもうなずける。

 スマホが鳴動したのは、会計を終えて外に出た時だった。

 表示されている名前は「掛巣かけす千寿せんじゅ」――マネージャーだ。

「お疲れさまです!」と威勢のいい声が鼓膜を直撃する。「磯沢先輩、今ちょっと大丈夫ですか?」

「二秒で済ませろ」

「それじゃあ四文字くらいしか伝えられませんよ」

 なはは、と特徴的な笑い声は学生時代から変わらない。

 彼は高校が同じで、歳は二つ下だ。部活も一緒だったためそこそこ付き合いは長い。卒業後は霹靂神のマネージャーに就き、たまに輝恭たちのことをうっかり〝先輩〟と呼んでくる。

「で、なんか用か」

「ああ、いえ。その様子だとご存知なさそうですね」

「あ?」

 どういう意味だ。掛巣はもごもごと言い淀んでなかなか次を切り出さない。人差し指がイライラとスマホのふちを叩く。

「嵯峨先輩が珍しくお一人で帰り支度してたので、ちょっと声かけたんです。そうしたら『ご飯に誘われてて』って言うんで、誰からかなって聞いたら」

 ――まさか。

「『千両くんに呼ばれたから行ってくる』って出て行ったんですけど」

「……千両?」

 聞き覚えのある名前だ。それもつい先ほど知ったばかりの。

「……千両柘榴か?」

「恐らく。で、ですね、千両さんがリーダーのカレンデュラって、丹和先ぱ……丹和さんがいるじゃないですか」

「あいつに会いに行ったと?」

「分かりませんけどね。その場にいるのが千両さんだけなのか、それともカレンデュラ全員がいるのか。なんにせよ磯沢先輩は誘われてないのかなと思ったので、一応確認のお電話を」

「どこだ」

 怒気をあらわにかつかつと靴を鳴らし、輝恭は通りにある店にざっと目を通した。

「菊がどの店に呼ばれたか聞いてんだろうな」

「いや、そこまでは。プライベートなことですし」

 掛巣の言葉は正論だ。仕事に関することならともかく、誘いに乗ったのは菊司の意思だろうし、彼が口を突っ込むことではない。なぜ引き止めなかったと怒るのも理不尽だろう。

 ひとまず伝えましたから、と電話は切れた。

 ――どこだ。あいつはどこに呼ばれた。

 食事に誘われたというなら、飲食店であるのは間違いない。しかし高級店からお手頃価格な居酒屋など、視界に入るだけで少なくとも十店舗はある。そもそもテレビ局のそばにある店に入ったとも限らない。電車なりタクシーなりで移動した先かもしれないのだ。

 菊司に電話して訊ねれば手っ取り早いが、もしその場に初雪が居れば高確率ではぐらかすだろう。一軒一軒しらみつぶしに回るのも非現実的だった。

 ――冷静になれ。焦るな。

 ふー、と細く長く気を吐き、輝恭は夜空を仰いだ。澄んだ空気の中、数多の星がビル群の眩しさにかき消されそうになりながらまたたいている。

 ――仕方ねえ。明日にでも問い詰めるしかねえか。

 どういう用事で呼ばれたのか、その場に初雪はいたのか。明日以降であれば自分も今より落ち着いて話が出来る。

 ひとまず今日は帰った方がいい。大人しく駅に向かうべく、輝恭は横断歩道の手前で立ち止まった。

 信号が変わるまでの間、なんとなく周囲に視線を巡らせる。

 その途中、一階部分がファミレスになっているビルに目が留まった。

「……あ?」

 窓の向こうによく知った顔が並んでいる。片方は菊司で、その奥に初雪が腰かけ、二人の向かい側には柘榴と玲央も認められた。

 信号が赤から青になった瞬間、輝恭はファミレスまで一直線に歩み寄った。

 彼らは食事しながらの会話に夢中で、こちらに気づいた様子はない。人見知りの菊司は柘榴たちと目を合わせることなく、もじもじと初雪に体を向ける。

 次の瞬間、菊司が初雪の手を取って頭を下げた。

「――っ!」

 自分に言い聞かせていた戒めは一瞬で吹き飛んだ。

 輝恭は腕を振りかぶり、力任せに窓ガラスを殴りつけた。

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