第5話
かたことと物音が聞こえる。輝恭は重たい瞼をどうにか開け、寝起きの犬のごとく腕と足を伸ばした。
カーテンの向こうはすでに明るい。ベランダでスズメが会話しているのか、かしましい鳴き声も聞こえた。なぜ自分は客室で寝ていたのかしばらく理解できず、五分ほど眠気と戦ってから、ようやく昨晩の状況を思い出した。
――そうだ。菊を寝かそうとして、そのまま俺も寝たんだ。
部屋を見回してみたが、どこにも菊司がいない。さらに畳の上に直接倒れこんだはずだが、体は布団に包まれていた。
ずるずると這いつくばって移動し、リビングに続く襖を開ける。ふわりと乳製品らしき香りが鼻をくすぐり、ようやく意識がはっきりした。
「おはよう輝恭くん」
目の前を菊司が通り過ぎかけ、手に持っていた皿を机に置いてから目の前にしゃがみこんできた。
「先起きてたのか」
「一時間くらい前に。昨日作業しようと思ってからの記憶が無いんだけど、もしかして僕寝落ちした?」
「した」とうなずいて立ち上がり、皿に盛りつけられた料理に目を向けた。
ふっくらと綺麗な形をしたオムレツに茹でたブロッコリーが添えてある。こんがりと焼けた食パン二枚は菊司が食べる分か。その傍らにあるイチゴジャムはキッチンに常備していた覚えがない。
「あ、冷蔵庫の中のものには手つけてないよ。さっき色々買ってきたの」
「朝っぱらからわざわざ? 別に使いたいもん勝手に使ってよかったのに」
「じゃあ次からそうさせてもらうね。輝恭くんも食パンにする?」
首を傾げて訊ねてきた瞬間、輝恭が使っているシャンプーと同じ芳香がした。どうやら風呂にもすでに入ったようだ。朝からやたらと活動的なのは夜すぐに眠ってしまった反動らしい。
輝恭も食パンを二枚焼いて、座卓を挟むように向かい合って座る。
いただきます、とオムレツを箸で割ると、半熟の中身がとろりと皿に広がった。糸を引いているのはチーズだろう。先ほどの乳製品の香りはこれかと合点がいき、少しだけケチャップをかけてから口に運んだ。
「美味いな」
「本当? ありがとう。今日はいつもより上手く焼け……いてて」
「?」
「ちょっと体の節々が痛くて」
菊司がぐるりと肩を回すと、聞いていて心配になるほど大きくぽきっと音がした。
「畳の上でそのまま寝てたんだから当たり前だろ。そういや俺に布団かけたのお前か」
「うん。上になにも被ってなくて寒そうだったから。でもなんで一緒に寝てたの?」
「お前が抱きついてきやがったんだろうが」
「……抱き……え? 僕が?」
「お前以外に誰がいんだよ」
卵の甘みとチーズの塩気、ケチャップの酸味が口の中で調和する。普段は白米に味噌汁とあっさりめに済ませることがほとんどだが、菊司が来た時だけ彼お手製の朝食を味わっている。
ブロッコリーの茹で加減もちょうどいい。特に芯がほっくりとして硬すぎず、柔らかすぎない。褒めてやろうと菊司を見ると、困惑したように目を丸くしたまま手を止めていた。
「なに驚いてんだ」
「や、えっと……嫌だった、よね? ごめん」
「そうでもねえけど」
布団で眠れなかった不満はあるが、よくよく考えてみれば抱きつかれたことに対しての抵抗感はそれほどない。
恐らく幼少期から何度も似たようなことをされているからだ。
噛まれるときも背中に腕を回されているし、あれも抱きつくのとほぼ同じだろう。
「お前ってさ、まだアレ持ってんの」
「アレ?」
「猫の抱き枕。中学ん時に買ったってやつ」
「持ってるけど」
「じゃあ勘違いしたんじゃね」
いつも眠る際に抱きしめていたとすれば、近くにいた輝恭をそれと間違えてしまったとしてもさほど不思議ではない。
「あと昔の夢も見てたっぽかったし」
「そうなの?」
「寝言で昔のあだ名呼ばれた」
「全然覚えてない……」
――ってことは、「すき」っつったのも忘れてんだろうな。
果たしてどういう意味での「すき」だったのだろう。友情なのか、それとも。
だが好意的な「すき」とも限らない。高身長と演技力を買われて、彼はたまにミュージカルに出演しているため、「隙あり」などなにかしらの台詞の一部である可能性も捨てきれなかった。
内容を思い出そうとしているのか、菊司はしきりに首をひねっては天井を仰ぐ。だが徒労に終わったようで、照れくさそうに眉を下げて笑った。
「とりあえず次からは寝落ちしないようにするね。迷惑かけちゃうもん」
「そうしろ。結局衣装のデザインとやらも確認出来てねえし」
「あっ、じゃあ今見る?」
朝食前に片付けたであろう資料を出そうとされたが、汚れてはいけないからと制する。食器を洗ってから改めてデザインを見せるよう求めると、昨晩は菊司の腕の下敷きになっていたそれが座卓の上にずらりと並べられた。
デザイン案にはいずれも〝ホーリーミュージックデイ〟と記されている。出演予定の音楽番組のタイトルか。
「略して〝ホリデイ〟っていうんだって。短くて分かりやすいよね」
「それなりに。時期はクリスマスだったよな」
「うん。だから色合いもそれっぽいのを加えてみたの」
デザインは輝恭用と菊司用の二通りあり、いつも通りの白はもちろんのこと、輝恭は赤、菊司は緑が多用されている。普段の衣装ではほとんど使われていない色が目を惹いた。
特に意外だったのは、和服ではなく軍服に似た衣装だった点だ。左肩に羽織ったマントの裏地には稲妻模様が描かれ、霹靂神らしさが損なわれていない。
「腰のベルトの先はなについてんだ。鈴か?」
「音が鳴らないから本当にただの飾りだけどね。大ぶりでかっこいいと思うんだけど、どう?」
「悪くねえ」
軍帽の正面についたエンブレムもそれぞれで違いがある。輝恭は名前の読みが同じの桔梗を、菊司は菊の花を模っており、繊細なこだわりが感じられた。
他にも定番の和服アレンジのものや、より洋装の味わいが強いデザインも一通り確認したけれど、輝恭が気に入ったのは軍服風の衣装だった。クリスマスらしさはあまり強くないが、そのぶん他の時期に開催するライブでも着用しやすい。
「けどなんで軍服なんだ」
「去年ラジオの朗読劇で『くるみ割り人形』やったの覚えてる?」
霹靂神はナレーションやラジオなど声のみの仕事も多い。菊司が言う朗読劇もそういった仕事の一つだ。クリスマスにちなんだ作品で読んでほしいものを視聴者から募り、選ばれたいくつかを週替わりで毎週一作品ずつ紹介していくという趣旨だった。
くるみ割り人形はクリスマス・イブの夜が舞台だった記憶はあるが、登場人物などいまいちはっきりしない。外国の作品なのだから仕方ないとはいえ、名前が横文字だらけで覚えにくかったのだ。何度も舌を噛みそうになった苦さが頭の片隅に残っている。
「でね、くるみ割り人形って兵隊さんのかっこうしてるでしょ。ずっとかっこいいなと思ってて、絶対にいつかデザインに取り入れようって決めてたんだ」
「満を持して放出したわけか」
改めて衣装の案に目を下ろす。言われてみれば、他の案に比べると線や色の一つ一つから気合が感じられた。だからこそ輝恭も惹かれたのだろう。
「なあ菊」
「うん?」
「好きだぞ」
えっ、と菊司は前髪の奥で目を丸くしたようだった。
「お前が考える衣装」
「へ……あ。い、衣装」
「これだけじゃねえぞ。今までのも、だ。俺だったら絶対に思いつかねえ」
「でも僕が衣装とか考えるようになったの、輝恭くんのおかげだよ」
わざわざ背筋をピンと伸ばして正座し、菊司は至極真剣な顔つきで言葉を紡ぐ。
「デビュー前に『なんでもいいから衣装考えろ』って言われた時は戸惑ったけど、いざやってみると面白かったし、輝恭くんがこれ着たら似合うだろうなあって考えながら描くのワクワクする。どれがいいか選んでもらってる時間も、緊張するけど嬉しいし」
「嬉しい?」
「『僕はこれ気に入ってるけどなあ』って思ってるものを輝恭くんが選んでくれた時とか、ね。考えてること一緒だって分かる瞬間って、なんだか嬉しくならない?」
確かに、と言葉で答える代わりにぐりぐりと頭を撫でてやる。
菊司はさっそくマネージャーに衣装の決定案を送信したようだ。初期の頃は採寸から布選びまで全て菊司が担っていたが、仕事が増えた今ではなかなか時間が取れず難しい。
それでもなお、輝恭の首を飾るチョーカーだけは自分の手で作るべく製作時間を捻出しているそうだ。
なんとなく首筋を撫でて、起きてからチョーカーを付けていなかったことに気づいた。風呂と就寝中以外はほぼ四六時中つけているため、無いとどうにも落ち着かない。
箪笥から適当に引っぱり出してリビングに戻ると、菊司がスマホの画面を凝視して固まっていた。ちょいちょいと耳をつついてやれば、大仰なほどに驚いて肩を跳ねさせる。
「マネージャーからか」
「う、うん。衣装案受けとりましたって返事と一緒に、ホリデイの出演者一覧が送られてきて。……見る?」
「いや、いい。あんま興味ねえし」
〝ホリデイ〟は毎年放送されているが、デビューしたばかりの新人から芸歴数十年の大御所まで幅広く出演する。中にはめったにメディアに顔を出さないタイプのアーティストも少なくない。菊司が注視していたのも、そういった人物がいたからだろう。
それより、と輝恭は手にしていたチョーカーを菊司に押しつけた。
「今日はこれにする。後ろの紐結べ。自分じゃ上手くやれねえ」
「輝恭くん蝶々結び苦手だもんね」
「うるせえ。さっさとやれ」
くすくすと笑う頬を力いっぱいつねって謝罪を聞いてから、輝恭は菊司に背を向けた。
噛まれた跡が襟から覗いていたのだろうか。冷たい指先に肩をなぞられ、ひくっと背筋が震える。
別に珍しい行動ではなかったのに、どんな顔をして触れているのかなぜだか気になった。
けれど振り返ろうとした矢先に、菊司はあっという間に紐を結んで「出来たよ」と肩を叩いてくる。口もとに浮かんでいる笑みはいつものへにゃっとしたそれだ。薄く開いた唇の隙間からちろりと白い犬歯が覗く。
あの跡が己の肌に残っているのだと妙な実感を覚えつつ、輝恭は礼を言いながらチョーカーからぶら下がる人魂を模した飾りを指先で弾いた。
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