第4話
濡れた髪をバスタオルで拭いながら、輝恭は大きく口を開けた。あくびともため息ともつかない吐息がこぼれていく。
事務所を出た足でそのまま実家に向かい、ケーキだけを回収するはずが結局夕食も摂る羽目になったのだ。しかも芸能活動に反対している兄と父も同席していたため、場の空気は決して良いものではなかった。
「あのクソ兄貴、『アイドル辞めろ』以外に言うことねえのかよ」
母や菊司がいくら平穏な世間話をしようとしても、兄は強引に輝恭を非難してくる。
道楽でやっているわけではないと説明したところで聞く耳を持ってもらえず、そのせいで最終的に激しい応酬をくり広げることになる。誕生日くらい和やかに過ごさせる気は毛頭なかったようだ。
『いいか輝恭。私になにかあった場合、お前は寺を継ぐ必要があるんだぞ。その自覚を持てというのがなぜ分からん』
「……んなもん、分かってたまるか」
家を出る間際、背中に投げられた兄の言葉にぽつりと文句をこぼす。
――俺は、兄貴の代わりじゃねえ。
首にかけたタオルを強く握りしめ、鏡の中の自分と向かい合った。
父親似の兄と違い、輝恭は母の顔立ちを受け継いだ。じっと見れば見るほど、やはり自分と兄は似ても似つかないと実感出来る。
髪を乾かすべくドライヤーに手を伸ばしたところで、不意にごつんっと鈍い音が耳に届いた。リビングからだ。
なにごとかと様子を見に行くと、菊司が座卓に倒れこんでいる。慌てたのは一瞬で、かたわらにしゃがみこむとすうすうと寝息を立てているのが分かった。
「おい菊」
頭頂部をつつくと、む、と小さな唸り声が返る。起きる気配はなく、子どもがむずかるように背中を丸める始末だ。
ふと彼の手元を見ると、紙が数枚散らばっていた。作業するつもりで出したものの眠気に勝てなかったのか。
ただでさえ疲弊するテレビ収録のあとに、険悪な雰囲気の中で食事をさせられたのだ。家に着いたのは二十二時を過ぎていたし、肩の力を抜いた途端、一気に夢の中に落ちたと見える。
霹靂神のステージ衣装はすべて菊司が原案を担っている。今までの衣装は白を基調とした和服アレンジのものが多く、袖口や襟に稲妻模様が施してあったり、二人で対になるデザインだったりと、こだわりがめいっぱい詰まっていた。
クリスマスに出演する番組で着用する衣装はどんな風だろう。気になって覗きこんだけれど、顔や腕の陰になってほとんど見えない。
「しゃーねえな」
無理に起こすのも忍びない。輝恭はリビングの隣にある和室に向かった。
襖で隔てられたそこはもともと衣装部屋だったけれど、今では半ば菊司が泊まるための部屋と化している。かけ布団や目覚まし時計など、菊司の私物も少なくない。
夜は冷える時期になってきた。あのままリビングで寝かせれば風邪を引いてしまうだろう。腹が痛いとも言っていたし、これ以上体調が悪化するのは良くない。
いそいそと敷布団を広げかけ、はたと手を止めた。
――ここまで連れてくんのだるくねえか。
脱力した体を抱えるなり、引きずるなりするのは骨が折れる。あのままリビングで横にさせた方が圧倒的に楽だが、布団をそちらに運ぶのも面倒くさい。
――となると。
数年前から菊司が持ちこんでいるブランケットがあったはずだ。寒さが厳しい時期に使っており、記憶が確かなら押し入れにしまってある。
「猫の柄だったよな」とぶつぶつ呟きながら、いくつも重なった布団や枕の隙間に手を突っ込んだ。「……使わねえ布団とか、そろそろどうにかするか」
輝恭の寝室は隣にあるもう一つの和室だ。ここを使うのは基本的に菊司一人だけれど、布団も枕も、もう一人ぶん余計に備わっている。当分表に出す予定もないし、処分か実家に送りつけるかしなければ。
これでもない、これも違う、と次々に引っぱり出して、ようやく求めていたものを手に取った。上に摘んであるものが崩れないよう慎重に抜き、足音を立てないようそっと菊司に近づいてブランケットをかけてやる。
「…………」
なんとなく菊司の耳に手を伸ばし、ちらちらとピアスを揺らした。
ピアスホールを開けるよう指示したのは輝恭だ。デビュー前に〝霹靂神らしいもの〟が欲しくて探していたところ、たまたま稲妻型のピアスを見つけて、そろってつけることにしたのだが。
――痛そうだから嫌だって、すげえ渋られたんだった。
腹を括れと何度怒鳴ったか、もう覚えていない。「ぴゃー」と間抜けな声で泣いて抵抗されたが、意を決した彼に頼まれ、ピアスホールを開けてくれる皮膚科に付き添ったのだ。
開けるまではぷるぷると子犬のごとく震えていたのに、いざ穴が出来るととても嬉しそうだった。あの時の顔を忘れることはないだろう。
「……そういや、まだどこかに……」
今度は自分の寝室に行き、リビングから届く明かりを頼りに箪笥を開けた。
チョーカーの収納スペース横には、そのほかのアクセサリーをまとめて入れた箱がある。その奥底から、一対のピアスを手に取った。
自分や菊司がつけている稲妻のそれと同じデザインだ。もう二年近くしまわれたままだったピアスは、久方ぶりの光を鈍く健気に弾いている。
「さっさと捨てるつもりだったのにな」
くく、と喉の奥で笑って、手のひらに強く握りこむ。
もう誰にもつけられることはないのだ。目にするたびに忌まわしい顔が脳裏に浮かんで腹が立つし、いつまでも持っていても邪魔でしかない。
――ニチカ。
勢いよくゴミ箱に叩きつけるつもりで腕を振りかぶった。だが「そういやピアスって燃えるゴミじゃねえよな」と些細なことが気にかかって、ゆるゆると腕を体の横に下ろした。
「――……くん」
「あ?」
呼ばれた気がして――結局ピアスを元の箱に戻してから――振り返る。起きたのかと思ったが、菊司は相変わらず机に突っ伏したまま眠っていた。
「……き……くん……」
「なんだよ」
目元を覆う前髪を指先で払えば、気持ちよさそうな寝顔が露わになった。
なんの夢を見ているのだろう。舌足らずに何度も名前を呼んでくるが、よく聞くと「輝恭くん」ではなく「きーくん」とくり返している。
「子どもの頃のあだ名じゃねえか」
いつの間にか呼ばれなくなった愛称を久しぶりに聞いて、妙に懐かしくなる。
不意にいたずら心が湧き、輝恭は彼の鼻を摘まんだ。数秒もすると苦しくなってきたのか、迷惑そうに寄った眉の下でぼんやりと目が開いた。
「…………うん……?」
「よう」ぱっと手を放して、にしし、と歯を見せて笑いかける。「起こして悪いな」
「……ううん」
「目ぇ覚めたんならちょうどいい。風呂どうする」
まだはっきり覚醒したわけではないらしい。菊司はゆらゆらと覚束ない足取りで立ち上がると、輝恭の問いに答えないまま客室に向かって進む。が、部屋に入る直前で襖にぶつかり、そのまま再び眠りに落ちた。
「こんなとこで寝んな。アホか」
手のかかる子どもを相手にしているような心地でため息をつき、腕を引いてなんとか室内に連れこむ。
「くそ、最初から布団敷いときゃ良か――――うおっ」
敷布団を出そうと背を向けた直後、体が大きくふらついた。
菊司に腕を掴まれ、強引に引き寄せられたからだ。
踏ん張りがきかずに、そのまま二人とも畳に倒れこむ。なにが起きたのか分からず困惑している間に、輝恭は強く抱きしめられていた。
「おい! なにやってんだよ」
「……きーくん」
「寝ぼけんのも大概にしろ。俺まだ髪乾かしてねえんだぞ!」
「…………」
「菊、ちょ、おい!」
先ほどのように鼻を摘まめばまた目を覚ますかもしれないが、腕ごと抱きしめられているせいで難しい。どうにか拘束を解こうとしたけれど、風呂上がりに無駄な疲労感を味わいたくなかった。
悩んだすえに抜け出すのを諦め、輝恭は全身の力を抜いた。
「髪の毛痛んだらお前のせいだからな」
「きーくん」
「……はいはい」
辟易しつつ返事をして、腕の中から菊司の顔を見上げる。声が届いたのか、彼は幸せそうに頬を綻ばせた。
「きーくん、すき」
「……あ?」
「…………」
「菊?」
問いかけに返事はない。寝言もすっかり止み、どうやら深い眠りに沈んだようだ。
――ちょっと待て。
――こいつ今なんて言った。
冷静に考えようとしたが、とくとくと規則正しい心臓の音と人肌の温もりが眠気を誘う。
仕方が無い。一通りの鬱憤とともに朝になってから聞くほかなさそうだ。輝恭はあくびをこぼし、ゆっくりと眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます