第3話
初めて噛みつかれたのは高校一年の初夏だった。
志望した高校に無事入学してから、家が隣同士とはいえ菊司と顔を合わせる機会が減った。中学校は徒歩圏内にあったが高校は電車を使わねばならず、混雑を避けようと思うと出来るだけ早い時間に家を出る必要がある。ゆえに通学時間が被らないのだ。
部活に入ると帰宅も遅くなり、新しい生活リズムに慣れるまでしばらくかかった。ようやく落ち着いた頃、菊司から「勉強教えて」と連絡が来て、休みの日に久しぶりに家を訪れた。
『中間テストはこの前終わったんだろ。もう期末に向けて対策か?』
『それもあるけど、輝恭くんと同じとこ進むにはまだちょっと学力的に厳しくて』
『お。俺が通ってるとこにするんだな』
『そうしろって言ったのは輝恭くんじゃん』
それもそうだ、と笑いながら、今までのように彼のベッドに寝転がる。普段は畳に布団を敷いているため、スプリングで体が弾む感覚は菊司の部屋に来た時くらいしか味わえない。妙な特別感が気に入っていた。
ふと脇を見ると、やけに大きな黒猫の抱き枕があった。買ってからそれほど時間が経っていないようで、ふわふわとした手触りが心地いい。金色の目は垂れ気味で愛嬌があり、間抜けに緩んだ口もとからは舌を覗かせている。
『良いもん買ったんだな』
『可愛いでしょ。この前出かけた時に売ってて、似てるなって思ったから買っちゃった』
『似てる? なにに』
『……それよりさ、高校、楽しい?』
急な問いかけに、輝恭は首を傾げながらも「まあな」と答えた。
『気の合う奴もいるんだよ。同じクラスの隣の席の奴でさ』
『……へえ』
『「名前なんて読むんだ、テルヤスか?」って言ってきやがった時は「ふざけんな」って怒鳴ったけどな。面白がって呼び続けてきやがるから、そいつの名字〝
高校には普通科ももちろんあるが、クラスは学科ごとに分かれている。つまり彼も芸能科を選択したのだ。趣味や嗜好は違っても、お互いになにかしら夢を抱いて入学してきたという共通点が感じられた。
部活もたまたまそろって茶道部に入り、自然と会話が増えるうちに今では軽口を言いあえる程度の仲になっている。
『……ふうん。そっか』
菊司は小さく呟くと、ペンを走らせていた手を止めた。
かと思うと、急に立ち上がってゆらりとベッドに乗りかかってくる。二人分の重みを受け止めてマットレスが大きく沈んだ。
『あ? なんだ、寝んのか』
『…………』
『菊?』
無言のまま脚の上にまたがられ、重いからどけと文句を言うつもりで顔を見上げた。しかし逆光のせいで表情がよく分からず、じっと見つめられていることしか分からない。ひく、と口の端が痙攣した。
『おい、どうし――』
上半身を起こそうとしたけれど、肩を押さえつけられて叶わない。ぎょっとする間もなく、身を屈めて首筋に顔を寄せてきた。
『いっ……!』
なにをしているのか訊ねようとした瞬間、強烈な痛みが全身を駆け抜けた。悲鳴をあげそうになったが、寸でのところで唇を噛みなんとか耐える。
『おい菊、やめろ! おい!』
脚や腕をがむしゃらに動かして、どうにか菊司を突き飛ばした。荒く息を吐いて痛む箇所に触れればぬるりと滑り、濡れた指には赤いものも混じっている。
噛まれたのだと、その時ようやく理解した。
『いきなりなにしやがる!』
『ごめん』
『ごめんで済むか。なんなんだ、いきなり』
『だって怖かったんだもん』と菊司は輝恭の上に腰を下ろしたまま、自身の唇を指で拭っていた。『輝恭くんが僕とじゃなくて、ニチカって人とユニット組んじゃうんじゃないかって』
『はあ?』
『仲のいい友だちが出来たのはいいことだよ。でもそれで、僕が選ばれなくなったらって、怖くて』
菊司の指が首に残されているであろう歯形をなぞる。爪で傷口をひっかかれ、ちりりとした痛みに輝恭の喉からうめき声が漏れた。
『だから、分かるようにしておけばいいって思ったんだ』
『……なにを』
『輝恭くんには僕がいるんだって』
『アホか!』
しつこく撫でる手を払いのけ、勢いよく頭に拳骨を落としてやる。いつもなら痛いだのと泣き叫ぶのに、今回はやけに大人しい。怒られて当然のことをした自覚があるからだろう。
『去年言ったよな。ユニットを組むなら菊がいいって。忘れたとは言わせねえぞ』
『忘れてないよ。だけど』
『だけどもクソもあるか。つーか噛むなら噛むって言え』
『……え?』
『んだよ』
衣服の乱れを直しつつ、今度こそ体を起こす。ようやくはっきり見えた菊司の表情は、きょとんと困惑に染まっていた。
『……噛むのはいいの?』
『犬に噛まれるのと似たようなもんだろ』
家では柴犬を雌雄一頭ずつ飼っている。雄は子犬の頃かなり気性が荒く、しつけに時間がかかって何度も手を噛まれたものだ。
『ちょっと写真撮れ』
『え、あ、うん』
スマホで首筋を撮影してもらい確認すると、やはりきれいな歯形が肌に刻まれていた。どこからどう見ても犬のそれではないとひと目でわかる。制服の襟で隠すのは難しそうだ。
『湿布貼りゃどうにか誤魔化せるか……次また噛むんだったらちゃんと事前に言えよ。あと服で隠れる場所にしろ』
『わ、分かった』
『言っとくけど、しょっちゅうやっていいわけじゃねえからな。んな何回もやられたら俺の身がもたねえ』
『じゃあ……輝恭くんの誕生日にする』
再び傷跡に手を伸ばして、菊司は不安そうに続ける。顔をうつむけて上目遣いでこちらを窺うさまは、頭を撫でてほしくて甘えてくる犬によく似ていた。
『輝恭くんの誕生日に、〝僕をあげる〟って意味で噛んでもいい?』
『どういう理屈だよ。いいけど』
許可が下りてほっとしたらしい。菊司はいつものようにへにゃりと笑っていた。
それから毎年、菊司は輝恭が誕生日を迎えるたびに歯型を刻んでくる。アイドルになってからも変わらず、忘れられたことは一度もない。
「っ、ぃ」
ぷつ、と皮膚の破れる音がする。耐え切れずに声が漏れ、慌てて奥歯を食いしばった。
どれだけの時間耐えただろう。ジーンズのポケットに突っこんでいたスマホが震え、背中がびくりと震えた。メッセージアプリではなく電話の着信のようだ。恐らく相手は母親か兄だろう、なかなか切れる気配が無い。
「菊、放せ」
「…………」
「おい。もういいだろ」
「……うん」
最後に傷をぺろりと舐めて、菊司がようやく肩を解放してくれた。加減をしろと言っておいたはずだが、年々噛まれる際の痛みが増している気がする。あとで叱らなければ。
輝恭はスマホとハンカチを引っぱり出し、ハンカチを菊司に押しつけて通話マークをタップした。電話の向こうにいたのは母で、「何時頃帰ってくるの」「夕飯は食べていくの?」と質問の弾丸におざなりな返事をしている間に、唾液まみれの肩はすっかり拭われていた。
「お前も来いってよ」
「僕も?」
輝恭のシャツのボタンを留めながら、菊司が申し訳なさそうに笑う。
「いいのかなあ。輝恭くんがアイドルになるの止めなかったからって時見くんに怒られたことあるし、嫌な顔されないといいけど」
「兄貴がなんか言ってきても聞き流しとけ。適当に無視してりゃそのうち文句も言い飽きる」
「あ、じゃあ一緒に帰るなら今日輝恭くんの家に泊まっていいかな。今度クリスマスの音楽番組に出るでしょ? それに合わせた衣装のデザイン考えてるんだけど、いくつか案あるから意見聞かせて」
「分かった」
上着を羽織ってトイレの扉を開け、輝恭はそっと外の様子をうかがった。万が一誰かがいた場合、個室から二人そろって出てくるところを目撃されてしまう。なにをしていたのか問われると答えに困るし、問われなくとも気まずい空気が流れるのは間違いない。
幸い他に利用者はいなかった。よし、と輝恭は一歩踏み出したが、菊司は座ったまま動こうとしない。
「なにやってんだ」
「あ、えっと、その。お、お腹痛くて……? みたいな」
「みたいなってなんだ。変なもん食って腹壊したのか?」
「かも。だから先に出てて。用済ませたらすぐ行く」
自身の腹痛をどうにかするより、プレゼントもとい噛みつくのを優先していたのか。
菊司を個室に残し、輝恭は廊下の壁にもたれかかった。肩はまだしくしくと痛む。歯型も数日間は残りそうだ。
――別に嫌じゃねえってあたり、俺の感覚どうなってんだろうな。
自分のことながらよく分からない。輝恭は唇をへの字に曲げて、のんびりと幼馴染が出てくるのを待った。
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