第2話

 音楽番組の収録を終え、輝恭ききょうは楽屋でスマホに目を落としていた。なにやら母からメッセージが届いている。タップして確認すれば「二十三歳の誕生日おめでとう」とシンプルな一言と、やけに大きなケーキの写真が表示された。

「どうしたの?」と後ろにいた菊司きくじが画面を覗きこんでくる。「はい、チョーカー結べたよ」

「おう」

 礼を言いつつ写真を見せてやる。さすが幼馴染だけあって、ケーキを作ったのは輝恭の母だと気づいたらしい。

「去年よりも大きくなってるね。帰りに寄るの?」

「そうしねえとうるせえだろ」

 高校卒業を機に一人暮らしを始めたけれど、母は毎年欠かさず誕生日ケーキを作る。そのたびに「ひと切れでいいから食べに来るなり、引き取りに来るなりしなさい」と文句を言われるのだ。無視すれば兄から叱責の電話がかかってくるし、今日も大人しく帰宅途中に顔を出すしかないだろう。

 輝恭の誕生日はハロウィンの前日だ。そのせいかケーキには必ず笑顔を浮かべたカボチャのロウソクが突き刺さっている。季節ごとの催しが好きな母らしいといえばらしいのだが。

「俺は洋菓子より和菓子のが好きなんだよ」

 ため息をつきながら荷物を片手に立ち上がる。いつまでも楽屋に居座るわけにはいかない。さっさと歩きだせば、菊司がすかさず隣に並んできた。

「でもなんだかんだ毎年『美味い』って嬉しそうにしてるじゃん」

「してねえ」

「素直じゃないなあ。あ、お疲れさまです」

 テレビ局の廊下ではスタッフやタレント、その関係者などとすれ違う。菊司が会釈するのに合わせて輝恭も軽く頭を下げ、ふと彼の目を見上げた。

「ずいぶんはっきり挨拶できるようになったな」

「慣れてきただけ」

 菊司は照れくさそうに自身の前髪を軽く撫でる。歩くたびにふわふわと揺れるそこは、尖り気味の目を完全に覆い隠していた。

「あんまり人の顔も見なくて済んでるし」

「まだ人に見られんの苦手なのかよ」

「もともと注目されるのそんなに好きじゃないもん! 緊張するし、手に変な汗かくし」

「デビューして何年経つと思ってやがる。明日で七年だぞ」

 母のケーキがやたら大きいのはそれも関係している。誕生日とデビュー記念日が連続するため、まとめて祝っているつもりらしい。

「もうそんなに経つんだね。早いや」

 菊司がしみじみと懐かしそうにする一方で、輝恭は手を伸ばして彼の耳を摘まみ上げた。稲妻を模したデザインのピアスがかすかな音を立てて揺れる。

「いたたたた」

「『そんなに経つ』んだから、いい加減慣れろって言ってんだよ。番組とか出てなんか言うたびに最低一回は噛んでるだろ」

「だって舌が上手く回らないんだもん!」

「可愛い子ぶってんじゃねえ。『慣れた』とかほざくんなら、もっと滑らかに喋れるようになってからにしやがれ」

「いたたた、ごめんって。頑張るから!」

 決意を聞けたところで耳を解放してやる。髪のせいでよく見えないが、瞳には涙を浮かべているかも知れない。

 ――注目されんの苦手っつー割には、ずっと俺についてきてんだよな。

 アイドルになれと誘ったのは本気だったが、断られる可能性ももちろん考えていた。だが菊司は、弱音を吐きながらではあるもののずっと隣を歩いてくれている。

 しょんぼりと俯いた頭を撫でてやると、へへ、と嬉しそうな笑みが広がった。

「ま、せいぜい張り切れよ」

「うん。……あ」

 不意に菊司が足を止めた。どうしたのかと振り返れば、彼の視線は右に伸びた通路に向けられている。倣って輝恭も目を向けてみたけれど、こちらの廊下と同様に関係者が行きかうばかりで、これといって気になるものはない。しいて言えば他所の事務所のアイドルや歌手が多い感じはする。

「他のスタジオでも音楽系の収録があったのかな……」

「珍しいもんでもないだろ。なんだ、なんかあったのか」

「う、ううん。見間違いだったかも」

「あっそ」

「それよりさ、僕も誕生日プレゼント渡していい?」

「あ? さっき貰っただろ」

 輝恭は鎖骨のあたりで揺れる花の形をしたチャームを指先で弾いた。桔梗を模ったそれは、つい先ほど菊司から誕生日プレゼントして受け取ったものだ。花の色と同じ青紫色に染まったベルト部分にも細かく桔梗紋があしらわれ、和装にも合わせやすそうである。

 スタジオから楽屋に戻った際、渡したいものがあると言ってつけてくれたのだ。つい十分ほど前のことで、記憶違いのはずがない。

 輝恭が訝しげにしていると、菊司はもじもじと指を組みながら「そうだけど」と頬を染める。

「チョーカーは何回も渡してるでしょ」

「言われてみりゃそうだな」

 自室の箪笥の一画にはチョーカーの収納スペースを設けてある。そこに収まっているのは全て菊司がデザインしたそれだ。二年ほど前から定期的に贈られ続け、数えるのも面倒なほどに増えている。

 言葉にするのが恥ずかしいのか、菊司はなにか言いかけてはすぐに口をつぐみ、こちらを伺いながら己の首筋を撫でた。

 ――ああ。あれか。

 ようやく合点がいき、さっと周囲を見回した。

 目当ての場所はすぐそこにある。「とっとと済ませるぞ」と輝恭は菊司の手を引いて大股で歩き出した。

 二人が入ったのは、なんの変哲もない男性用トイレだ。輝恭たちのほかに誰もいないようで、三つある個室の扉は全て空いている。

 その中から最奥の個室に菊司を押しこんで、続いて自分も入ってから鍵を閉める。身長が百八十センチを優に超す菊司とともに狭い場所で並ぶと、圧迫感が凄まじかった。

「で、どうすりゃいい」

「えっと、じゃあとりあえずここに……」

 よいしょ、と菊司は便座に腰かけて太ももを軽く叩く。ここに跨がれと言っているのだろう。

 指示された通り、向かい合うようにためらいなく腰を下ろす。静かなトイレに、便座の軋みがやけに大きく響いた気がした。

「近々雑誌の撮影とか入ってる?」

「特にねえな」

「ドラマも無いよね。ナレーションの収録は?」

「入ってるけど、着替えねえから大丈夫だろ」

 いつ誰が入ってくるか分からない。声を潜めつつ言葉を交わして上着を脱ぎ、シャツのボタンは菊司に外されていく。ひやりと冷たい手が肌を掠め、なにかの本で「手が冷たい人は心が温かい」という一文を見たのを思い出した。

「なるべく隠れた方がいい?」

「当たり前だろ。誤魔化すの面倒くせえんだぞ」

「見えなきゃ意味ないのに」

「ごちゃごちゃ言うな。おら、早くしろ。お袋から『遅い』って電話かかってくる」

「うーん……どうしようかなあ」

 つ、と菊司の指が輝恭の首筋から肩までなぞっていく。やがて「この辺なら見えないと思う」と右肩の付け根あたりを撫でられた。

「んじゃそこでいい」と輝恭は右腕をシャツから引っこ抜く。「毎回言ってるけどな、加減しろよ」

「出来るだけ頑張る。それじゃ――少しだけ我慢しててね」

 輝恭がうなずくや否や、菊司の腕が背中に回って強く引き寄せられる。

 次の瞬間、露わにしていた肩に勢いよく噛みつかれた。

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