靴と雷―電光一閃―

小野寺かける

第1話

 曇り空をゴロゴロと音が走っている。輝恭ききょうはベッドに寝転んで、時おり見える一瞬の光を窓越しに眺めていた。

 風が吹き始めたのか、庭の木がざわざわとしなった。間もなく雨も降りだすだろう。

 ごろりと寝返りを打ち、ベッドのかたわらに置かれたちゃぶ台に視線を移す。卓上には中間テスト対策のノートや教科書が広げられ、それと向き合っているはずの一つ年下の幼馴染は両手で耳をふさいで震えていた。

「なにやってんだ」

「…………」

「おい菊。おい!」

「ひえっ」

 無理やり腕をひっぱり、露わになった耳元で叫んでやる。それとほぼ同時に、先ほどよりもいささか大きくなった雷鳴が曇天に響きわたった。瞬間、幼馴染――菊司きくじの眼に涙が浮かんだ。

「せっかく聞こえないように耳ふさいでたのに!」

「知るか。んなことやってねえでさっさと勉強しろ! テメエが教えろっつーから来てやってんだろうが。全然進んでねえじゃねえか!」

「だって雷怖いんだもん! ていうか輝恭くんこそ、僕のベッドでくつろぎ過ぎだよ!」

「別にいいだろ。減るもんじゃねえし。うちにベッドねえから、菊の部屋来た時くらいしかこういうの堪能出来ねえんだよ」

「どうせそのうち寝るんでしょ。起こすの毎回大変なん――」

 菊司の言葉を遮るように、カッと白い光が外を染めた。数秒後に聞こえるであろう雷に備え、彼はまた耳をふさいでしまう。

 このままではらちが明かない。輝恭は頬杖をつき、長々とため息をついた。

「ガキじゃねえんだからいちいち怖がんな。おら、背筋伸ばせ。勉強しろ」

「うう、頑張る……」

「で、どこが分からねえんだ。日本史だよな、それ」

「苦手なのは数学だから、今のところは大丈夫。分からなくなったら声かけるね」

 おう、と答えつつ菊司の頭を乱雑に撫でてやる。へにゃ、と安心したような笑みに、自然とこちらの口角まで上がった。

 窓ガラスを叩く音に顔を上げると、いつの間にか雲は黒さを増し、雨粒が忙しなく地面に降りそそいでいた。まだ梅雨入りとは発表されていないが、あと二、三日もすれば天気予報は傘マークが並ぶだろう。

 雨は嫌いではない。嬉しそうに鳴く蛙の声や、川面や水田、草花の表面を打つ雨粒に耳を澄ませるのが好きだ。傘も持たずに外に出て、立ちつくしたまま濡れてみたいと思ったことも何度かある。

 そう口にしようものなら、主に菊司から「風邪引いちゃうよ」と咎められるのだけれど。

 ――俺も勉強するか。

 床に置いてあったリュックから教科書を引っぱり出し、仰向けになって顔の上に掲げ持つ。

 今年はいよいよ高校受験だ。すでに周囲は受験に向けて動き始め、先日も進路希望調査が行われた。

「……なあ菊」

「なあに?」

「俺さ、アイドルになろうと思うんだよ」

 ことん、とシャーペンが机に転がる気配がした。

「え?」と呟いた菊司の声は困惑に染まっていた。それもそうだろう。突然アイドルになりたいと聞かされて、驚かないわけがない。いたずらが成功したような心地で、輝恭はくくっと喉の奥で笑った。

「な、なんで? 急にどうしたの」

「この前お袋と一緒にテレビ見てたんだけどな、その時にたまたまつけてた音楽番組でそういうの見たんだよ」

 母の目当ては学生の頃から追いかけているという某歌手だったが、輝恭が惹かれたのは男性のアイドルユニットだった。

 きらきらとした衣装を身にまとい、輝かしい照明の中で歌っていた。カメラを向けられれば笑顔を浮かべ、スタジオに集まったファンたちに手を振られれば、ウインクをしたり手を振り返す。

 よく見ると、ファンたちはそれぞれ手にペンライトやうちわを携えていた。うちわは花やモールで彩られたり、好きなメンバーの名前や似顔絵などが書かれている。

「ああいうの、いいなって思ったんだよ。自分を見てもらえてるってのが一発で分かる」

 輝恭は腕を下ろし、教科書で顔を覆った。掲げるばかりで結局まともに読めておらず、一ページも進んでいない。

「菊は知ってんだろ。俺と兄貴のあれこれ」

「うん、まあ。お隣さんだし、幼馴染だし」

 輝恭の家はこの地域で代々続く寺だ。予定では七歳年上の兄が後を継ぐのだが、一つ問題があった。

 昔から兄は体が弱く、ことあるごとに寝こむのだ。

「俺はよく覚えてねえけど、一回だけ『もう死ぬかも知れない』くらいまで弱った時があったんだと。それから寝こむたびに『私になにかあった時はお前が後を継ぐんだぞ』って言ってきやがって、鬱陶しすぎる」

 兄のそれはもはや口癖だ。万が一、自分がこの世を去ったとしても問題ないよう、輝恭に厳しく当たってくる。もちろん反発もするが、さすがに手を出すわけにはいかないし、いつも口で負かされて終わる。

 年配の檀家も同様だ。「お兄さんが倒れちゃっても、弟さんがいるから安心ね」と平気で宣ってくるのだ。悪気はないだろうが、輝恭としては不愉快なことこの上ない。

 なぜどいつもこいつも、兄が倒れる前提で話すのか。兄もどうしてそれを受け入れ、口酸っぱく説教を垂れてくるのか。

「ふざけんなよ。俺は兄貴の代替品じゃねえ。だから思い知らせてやるんだよ」

 他の誰かの代わりではない。〝磯沢輝恭〟という名を持った一人の人間なのだと、ステージの上から叫んで見せつけてやる。

 は、と自嘲の笑みが口の端からこぼれた。

「ガキくせえ反抗心だって分かってる。下らねえ承認欲求の塊だ。笑いたきゃ笑え」

「笑わないよ」

 ベッドの端がわずかに傾いた。菊司がもたれかかってきたのだろう。

 笑わない、と彼はくり返した。落ち着いた声はひどく優しくて、癒しの雨のごとくささくれていた心を癒してくれる。

 顔を隠しておいて良かった。きっと今の自分は、情けなく泣きそうな顔をしているはずだ。

「でもどうやってアイドルになるの? どこかの事務所に履歴書送るとか?」

「芸能科のある高校に進むんだよ」

 都内の一部の私立高校にはタレント育成のためのコースが設けられている。いくつか調べた末に、輝恭はアイドル排出歴のある高校を目指すことにした。

 残念なことに輝恭は芸能の世界に決して明るくない。しかしそこに入れば、アイドルとはなにかから学べるだろうし、デビューのチャンスも掴める可能性がある。

「まあ兄貴には反対されるだろうけどな」

「まだ言ってないの? お母さんたちにも?」

「これから言う」

 兄は激しく拒否するだろう。両親も二つ返事で了承はしないと思われる。

 ――だとしても、折れてなんかやるか。

 薄っぺらい未来予想図の上を進むのではない。確固たる意志と夢があるのだから、そう簡単に希望を曲げてたまるものか。

「そっかあ。輝恭くんがアイドルかあ。じゃあ僕、ファン第一号になるね。ずっと応援してる」

「はあ?」

 教科書をどかして菊司の顔を見ると、「なんで? ダメ?」と焦ったように眉をハの字に下げていた。

「菊もなるんだぞ」

「……なにに?」

「アイドルに」

「なんで!」

 まるで敵を目の当たりにした草食動物のごとく、菊司は瞬時に立ち上がって後ずさりした。輝恭はにたりと笑ってベッドから降り、じりじり追いつめていく。

「調べてみたら、一人でやってるやつもいねえわけじゃねえが、大体のアイドルはユニットとかいうの作るのが普通みてえだな。俺がテレビで見たやつもそうだったし。だからだ」

「待って、意味分かんないよ!」

 壁際まで迫ったところで、これ以上逃れられないよう菊司の顔を両側に手をついて退路を塞ぐ。少し前まで輝恭の方の背が高かったはずだが、いつの間にか目を合わせるには少しだけ視線を上げなければいけなくなっている。

「みなまで言わなきゃ分からねえか。だったら教えてやる。――ユニットを組むなら、俺は菊がいい」

 ひゅ、と菊司が息をのんだ。輝恭はにっと唇を三日月形に歪め、彼の前髪を引っつかんだ。

「うわっ、なにするの!」

「アイドルってのは顔が良い方がいいんだろ? 幸いテメエは不細工じゃねえし、身長もある」

「それだけでアイドルになれるわけじゃないと思うけどなあ!」

「だったら俺と同じ高校に進めばいいだろ」

「簡単に言うけど、僕が受かるかどうかより、そもそも輝恭くんだって受かるか分からないじゃん!」

「この俺が受験に失敗するわけねえだろ、アホか。それとも俺が落ちるとでも?」

 思いません、と菊司が首を左右に振る。反応に満足して、輝恭はふふん、と鼻で笑った。

 刹那、視界が白く染まり、耳をつんざくような雷鳴が轟いた。

「!」

 近くに落ちたのかと窓に目をやりかけたところで、ぎゅうっと菊司に抱きつかれた。背中に回された腕は恐怖ゆえか小刻みに震え、顔は肩に強く伏せられたままなかなか上げようとしない。

「っ、おい菊」

 そういえば昔から、雷なり心霊映像なり、驚いたり怖がったりすると近くのものに抱きつく癖があったと頭の片隅で思い出した。力の加減まで気が回らないらしく、胸が少しだけ息苦しい。

 仕方がない。落ち着くまでしばらくこのままだと諦めて、輝恭は彼の肩を優しく叩いてやった。ふわふわとした黒髪が首筋に擦れ、少しばかりくすぐったい。

「……あ。そうだ」

「なに? もう雷止んだ?」

「止んでねえよ。いや、名前思いついたから」

「名前? なんの?」

「俺たちのユニット名」

 まだ結成してすらないのに考えるなど、気が早い自覚はある。菊司はおずおずと顔を上げ、どんな名前にしたのかと訊ねるように首を傾げていた。

「ないしょ」

「なんで。けち」

「菊が雷克服したら教えてやるよ」

「えー!」

 不満げに唇を尖らせたところで、また雷が轟音を響かせる。「ぴゃっ」とおかしな悲鳴を上げて、菊司は再び輝恭を強く抱きしめてきた。

 ユニット名が「激しい雷」を意味する〝霹靂神はたたがみ〟だと教えてやったのは、それから二年後、菊司が高校に入学してきたからだった。

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