10月5日 曇りときどき雨 23℃/17℃

101号室 大刃美憂(2)

 ぎゃあっ! ゴキブリ!


 リフォーム済みとはいえ築二十九年の家である。当然美憂みゆうのように廊下の隅で掃除機が埃を被っていたり、こぼしたパンくずをそのままにしたり、解体が面倒で放り出したままのAmazonのダンボールが雑なテトリスになっていたり、あげく週に二回の燃えるゴミの日を一回、時として二回飛ばしてしまったりしていれば、ゴキブリにとってここは子育て支援特区そのものである(字を見るのも嫌だという方のために、ここでは以後Gと呼ぶことにする)。


 出社前、朝の着替えの最中だった美憂は、ユニクロのブラトップと前を開けたままの半袖ブラウス、下半身はパンツ一丁、口に歯ブラシをくわえた攻撃力防御力ともに皆無な装備でGと遭遇してしまった。ここが台所であれば巷でよく聞く中性洗剤を浴びせるという一撃必殺法もあっただろうが、場所は洋室のど真ん中である。

 防戦一方と思われた美憂だが、幸運なことに彼女はスリッパを履いていた(床が汚いので履かざるを得ないのである)。殺気を悟られないよう、そおっとスリッパを脱ぎ片手に構える。Gの背後ににじり寄り、衣擦れの音に注意しながら膝を下ろし──

 しねっ!

 バンと大きな音を立てスリッパが空を切る。確かに仕留めたかと思ったそれは、しかし無常にもGの脇を掠め埃を舞い上がらせるにとどまった。自分に向けられた殺意に気がついたGは、猛スピードで壁際へ走り去る。

 逃すかっ!

 一撃目よりも慎重さにかけた二撃目を余裕で避けたGは、勢いでよろける美憂を尻目に壁を登りはじめた。頭に血が登った美憂は壁に向かって滅多撃ちを食らわせる。

 するとあろうことか、逃げ場を失ったGは羽を広げ美憂に向かって滑空したのである。

「いぎゃああああああ!」

 突然の奇襲に、大声を上げ武器のスリッパを放り投げる。Gの完全勝利かと思えたその刹那、美憂の口から飛び出した歯ブラシが空中のGに直撃した。Gは白い泡と共にボタッと仰向けに地に落ちる。体勢を立て直すその一瞬の隙に落ちたスリッパを拾い上げた美憂は、渾身の力をこめてGの上にその手を振り下ろした。

 美憂はGに勝利した。


 今なおピクピクと脚を痙攣させるGの死骸を大量のトイレットペーパーでこわごわ掴み、長年愛用したピンクの歯ブラシとともに三重のゴミ袋に入れると、さすがの美憂も石鹸で念入りに手を洗った。

 やれやれ、朝からとんだ災難だった。

 美憂はふうと息をついて額の汗を拭ったが、Gと格闘している間もときは止まってくれない。ふと目にはいった時計の針を見て、

「やばい、遅刻しちゃう!」

 そう叫んだ美憂は、急いでブラウスのボタンを留め、ズボンの入ったクロゼットの衣装ケースを開けるのが面倒だったので昨日脱いで洗濯籠に入れたネイビーのスラックスを鷲掴んで(一応匂わないのをチェックしてから)また履いた。

 それから廊下に出しっぱなしだったトートバッグにスマホを突っ込んで玄関でパンプスを履いたところで、上に着るつもりだったジャケットはクロゼットの中だとと気がついた。

 ──天気予報で今日は冷えるって言ったけど、そんなでもないじゃん。むしろ暑いし。まあいいや、半袖で行っちゃおう。

「いってきます!」

 美憂は遅刻ボーダーラインである7:54発の電車を目指し、袖のフリルをはためかせながら駅へ向かってダッシュした。


 美憂は今日のGとの闘いには勝利した。しかし家が彼らにとって支援特区であることは、彼女はまだ知らない……。

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めぞん・ど・ろーず 佐々木なの @sasakinano

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