102号室 木指直人(1)

『ん、ん、うん……』

 下半身は万年床の上に胡座をかき上半身をヤモリの如く壁にへばりつかせ、カップに当てた左耳に届く嬌声に全神経を集中しているこの中年男、名を木指直人きしなおとといった。

 壁際にひっついたまま微動だにしない直人の額から汗が一筋流れ、頬を伝ってポタリと落下し縞柄のパジャマの太腿に丸い染みを作る。

 それもそのはず、十月に入り秋めいて来たとは言え、今日のさいたま市は最高気温29℃、夏のような暑さである。直人はこの気温にも関わらず窓もカーテンも閉め切ったうえ、エアコンはおろか扇風機すら回していないのだ。6.5畳の狭い一室はさながら低温サウナである。

 直人が汗だくになってまで我慢を続けるのは節約のためでも、ましてやクーラーの風は身体に悪い教典を頑なに信じ熱中症に散った亡き母の教えのためでもなく、繊細な盗み聞きにとって家電製品の可動音は害悪そのものだからである。場合によっては冷蔵庫のコンセントすら抜く直人は、まさに壁越し盗聴のプロフェッショナルであった。


 それにしても──無心だった直人の心に雑念が浮かぶ。

 隣の女子学生は真面目そうな顔をして、四六時中股を弄り倒してあんあんあんあん喘いでいやがる。いや、何年か前に大学は卒業して今はOLだったか。まったく何というスキモノだ。色情狂だ。ちゃんとした会社勤めかどうかわかったもんじゃない。寝る前と起きてからのチョメチョメなんてほとんど日課じゃないか。今日のような休みの日には暇さえあればアンアンだ。自分で慰めるだけならまだしも最近は──とここで、直人は隣室の音から気が逸れている事に気づき苦笑した。

 昔は一日中でもこうして壁にへばりついて居られたものだが……俺も歳をとったな。自嘲して、白磁のカップからねばつく耳をぺりぺり剥がし、壁から離れて一つ伸びをした。


 壁紙のカップを当てていた場所には、目を凝らせばわかるくらいの画鋲で開けた小さな穴が三つある。穴にどれだけの効果があるかはわからない。これは直人にとってのおまじないに過ぎない。

 だがこのマグカップだけは絶対に外せない。ナニは無くともコレでなくては駄目なのである。

 当然プロである直人はこれまで江戸切子からシャンパングラス、鎚起ついき銅器に百均の紙コップまで、ありとあらゆる素材・形状のグラスやマグカップを試してきた。音が良くても重過ぎては持つ手が疲れてしまうし、かといって軽量過ぎては音が悪い。厚すぎても薄すぎても、反響が大きすぎてもよろしくない。

 そして試し尽くし行き着いた先が、数年前に家に遊びに来た姉が要らないからと半ば強引に押し付けてきたミッフィー(というキャラクターを直人は知らない)のワンポイントがついたこのマグカップ様なのである。

 抜群の集音能力、まるでその場に居るような音の臨場感、押し当てた左耳のフィット感、音に干渉せずコップを支えるのに最適な丈夫な持ち手、重過ぎずかといって軽過ぎない存在感。まさに盗聴カップ界のキングオブキング。このカップなくしては充実した盗聴ライフは送れない。


『ふぅん!』

 壁に寄らずとも漏れ聞こえた激しい息遣いに、直人はあわててマグカップを構え直した。耳に広がる次第に激しくなる粘着質な水音と、子犬の甘え声のような鼻を抜ける喘ぎ声。直人は思わず正座をして、ぎょろっとした瞳をますます見開いて、真面目なOLが絶頂に向かって喘ぐ様を眼前に見ようとした。

 ゴールはもうすぐそこだ! 最終コーナーを回って最後の直線──イけ、イけ、イけ!

 とその時、カップの中にトントントンとリズミカルな音が広がった。

「あぁ、くそっ!」

 いいところでとんだ邪魔が入った、また反対隣のババアの包丁の音だ。畜生!

 直人はマグカップをそうっと宝物を扱うようにちゃぶ台に置いてから、改めて鬱憤を晴らすように拳で枕を叩いた。

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