103号室 中鬼香織(1)

 玉ねぎを櫛形に切り、冷凍豚こまと一緒に油を引いた大鍋で炒める。その間ににんじんの皮をピーラーで剥き、大きめの乱切りにしてこれも鍋に入れる。焦げないよう時々鍋の様子を見ながら、じゃがいもも一口大に切り水を張ったボウルにさらす……。

 この部屋の住人である中鬼香織なかおにかおりが遅い朝食の支度をしている。カレーライスは香織の朝食であり昼食であり夕食でもあった。

 市販のルーを入れひと煮立ちさせたところで一旦カレー鍋の火を止め、今日一日の分の米四合を研ぎ炊飯器にセットして、やっと一息ついた。


 和室の畳に置かれた布貼りのリクライニング座椅子を倒し、横になって目を閉じる。こんな生活を続けてもう何年になるだろうか。

 台所の隅には、バーモントカレー中辛の黄色い箱が束になってビニール紐に括られている。その横には黄ばんだ新聞紙の上に野菜の入ったダンボールが三つ並んでいて、にんじん、じゃがいも、玉ねぎは嵩張るので宅配の出来るイオンで特売日に箱買いして安い米と一緒に届けてもらい、常にストックを切らさぬようにしているのだ。

 カレールーは安い時にまとめ買いをする。去年アパートから一キロほど離れたとにかく安いどこよりも安いと評判の激安スーパーで、底値を切った税抜百三十八円なのを見かけた時は心躍った。

 売り場に出ていたルー二十箱を全てカゴに入れて、意気揚々レジに向かったところで「お客様、ちょっといいですか……」と事務所に連れていかれ買い占めを注意され、その激安スーパーに顔を出せなくなった。それ以来仕方なくイオンで野菜と一緒に買うのだが、ここ最近は値上がりが続いておりため息が増えている。税抜で二百円を超えることもしばしばだ。そんな値段ではどうしてもストックが無い時以外は買えない。

 豚肉も安くすませたいのだが、あまり安すぎるものだと固くて噛めないと文句の種になるので、国産の冷凍豚肉三キロを買ってちまちまと使っている。


 香織はカレーが大嫌いだった。もうずっと前から鼻は麻痺している。自分ではわからないが、口さがない集団の前を通ると「なんかぁ急にカレーの匂いがしない?」と怪訝がられることも珍しくないので、肌も、服も、髪も、ありとあらゆる全ての物にバーモントカレー臭が沁み込んでいるのだろう。もしかすると胃壁まで黄土色かもしれない。


 今月も無事にお財布が持つかしら。野菜も米もどんどん値上がりしている。お金が無くなったらどうしよう。カレーが作れなくなったらどうしよう。物案じながらうとうとしていると、ドンと上から床を蹴る音がした気がして思わず飛び起きた。しまった、もうこんな時間。ユキ君の朝食を出さないと。

「ごめんね、いますぐよそうからね」

 慌てて台所へ行きカレーを温め返し、水切りカゴに立てていたカレー皿を持って炊飯器の蓋を開けたところで血の気が引いた。炊飯スイッチを押し忘れた。釜の中には水と水をたっぷり吸った生米しかない。

 震える手で早炊きモードを選ぼうとするのだが、パニックで手元が狂い液晶のメニューを何度も通り過ぎてしまう。

「ごめんね、お母さんスイッチ入れるの忘れちゃって、今すぐ炊くからちょっとだけ待って……」

 そうだ、冷凍庫に前の残りのご飯があるかも。最後の希望を胸に冷凍庫の扉を開けたその時、ダン、ダン、ダン、と乱暴に階段を駆ける音がしてドアノブがガチャリと鳴った。


 香織は絶望して、頭だけは守ろうと身を丸くした。

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